okadamktの日記

That's what we call a tactical retreat.

習性というのはそういうもの。

少なくともフッ酸を注ぐときはラベルが上だ。液だれがラベルに染みないように。フッ酸は触れると激しく体を腐食する危険な毒物としても知られている。もちろん実際に扱うときは当然手袋をしているし、硫酸や塩酸とは異なりラベルを損傷するというわけではない。つまり気持ちの問題ということになる。

 

小学生の高学年ぐらいからではないだろうか、こういう拘りが生まれるのは。その頃に試薬を取り出す方法を「なるほど」と思ったかどうかがその後の人生を決めている。もちろんその頃はビールは飲んでない。

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液体試薬を試薬びんから取り出すときは、図1のようにラベルが上向きになるように配慮する。下向きだと、びんの外側にこぼれた薬品によりラベルがおかされてボロボロになり、どんな薬品が入っていたのか分からなくなる。このことは、特に酸類において著しい。

http://www.osaka-c.ed.jp/kak/rika1/jik-db/jik2-3.htm

 

あとはこんなことに拘るゴミで私はいい。理系だし。

風景の記憶

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飯能と横瀬の境にある正丸峠から、晴れた日には関東平野が一望できる。遠くには筑波山が見える。ときどき、朝早くに車で出かけた。少し霞む関東平野は美しかった。遠くに巨人兵が眠る姿が見えたような気がした。

4月の終わりに、混む前にと思い、北の丸公園の国立近代美術館に東山魁夷展を見に行った。

私でも知っている『青響』。ブナの深い青の原生林を白い滝がどうどうと音を立てて流れ落ちている。水原秋桜子の"滝落ちて群青世界とどろけり"とはこういう滝をいうのだろうとずっと思っていた。

しかし解説によれば、画家が見た風景の中に滝はなかったという。深いブナの森をみて画家は滝の音が聴こえるような気がしたのだという。だからこの滝は幻の滝。

ブナの樹形はよく見ると角ばって描かれている。ブナに限らずこんな樹形の樹は存在しない。わざとそう描いているのだ。

「山を渡る風を表すには絵巻にするしかないと思った」『秋風行画巻』についてそう本人が説明している。時間と空間を同時に描く。ああ、創意というのはこういうことなのだと思う。 (秋風行画巻1秋風行画巻2秋風行画巻3

『雲ニ題 海の雲』は何度も戻ってみてしまう。雲間から差し込む微かな光、ジェイコブス・ラダーが海をほのかに照らしている。波がしらの繊細さも美しい。『石の窓』も 壁の質感も、最後のコーナーの『山峡飛雪』も素晴らしい。

京都を描いたものの中では、艶やかな『照紅葉』もよいが、心がしんと静かになるような『月篁』が好きだ。

(2008年5月3日, mixi 改)

極相

植物の群落が遷移し、最終的に到達する段階を意味する「極相」という状態がある。東北日本であればブナ林が、西南日本であればシイ、カシ林などがその代表となる。里山や植樹林を除けば、丹沢山塊がブナ林的で明るい感じの林が続き、川崎などの平地ではシイやカシの暗い感じの林が多くなるのは、関東が標高で東北日本的であったり西南日本的であったりするからだと思っている。

植物の場合、群落が極相に達するとが変わらない限り同じ状態で存続し続ける。それが極相という言葉の由来だ。一方で極相はそれほど確定的なものでもなく、初期状態や遷移過程など様々な条件によって変化するともいう。

制約条件の中での遷移の構造(様相)が変化するというのは、アナロジーとして面白い。たとえばボーリング。経済発展の経緯の中で平均所得がある一定レベルを超え、人々はレジャーを身近なレジャーを求めるときに発展するという。スポーツは遷移の過程を示し、現在はあまり人気のないボーリングは極相ではなかったということだ。スキーやテニスは極相なのか、それともそもそもスポーツなどでは極相という状態は存在しないのか。実はジョギングは極相なのか。

アナロジーだから結論はなく、論理的には本質的な整合性もない。だが、極相というアナロジーで考えると、ローラーゲームは本当にあだ花で、ある時期、ある条件のもとで一瞬だけ咲いた哀しいスポーツだったともいえる。

アシモフがファウンデーションシリーズの中でSF的な仮説として考えた「心理歴史学」(膨大な数の人間集団の行動を予測する為の数学的手法)もそんなアナロジーの延長線上にある。もちろんアシモフはその遷移の結果を極相的な安定状態よりはより不安定な状態として考えていた。ベルリンの壁崩壊以降の約30年に起こったことを考えると極相的な考え方よりもアシモフのSF的な予想の方が正しかったことになる。

【備考】気候的極相林、地理的極相林

(2009年4月17日, mixi 改)




 

 

 

ちはやぶる

「恋す蝶」という蝶はどんな蝶なのか、「ゆらの塔」というふしぎな塔はどこにあるのか

子どもの頃に感じた百人一首の思い出を歌人佐々木幸綱はそんな風に語っている(*1)。落語の「千早振る」(*2)に思わず共感してしまうのは、誰もが同じような気持ちになったからだろう。

もちろん、百人一首に歌われた内容の背景や意味をもう少しきちんとわかりたいと思う。アニメや映画にもなった「ちはやふる」の登場人物の一人、大江奏のいう通りだ。それに、その方がたぶん人生は豊かになる。私にとって詩人吉原幸子百人一首の現代語訳はその入り口を開いてくれる。

たとえば「ちはやぶる」。歌の詞書「二条の后の春宮の御息所と申しける時に、御屏風に竜田川に紅葉流れたるかたを描けりけるを題にて詠める」を受け、まるで幻想冒険小説の一場面だ。

ちはやぶる神代もきかず龍田川
からくれなゐに水くくるとは

神代のむかしには
さまざまなふしぎがあったとか
島が動いたり
八いろの雲がたなびいたり
それでも こんな話は絶えて聞きませぬ
まして人の世
このように珍しい景色があろうとは-


燃えるように色づいたもみじが
竜田川の川面にびっしりと浮かび
まるで 韓国(からくに)の紅で
澄んだ水を絞り染めにでもしたように
血のように 炎のように
重なり合って流れてゆく

(美しい屏風の主よ
 過ぎた日々 あなたに燃やした
 わたしの 胸の火のように)

好きな歌は年齢とともに変わる。寂しいという感情や人以外の者を友としたいという思いも募る。

世の中よ道こそなけれ思ひ入る
山の奥にも鹿ぞ鳴くなる

そうか
逃れる道は ありはしないのか


憂き世をいとう心にせめられ
思い悩み 思いつめて
この山奥へ 分け入ってきたが
ここにさえ 悟りすました静けさはなく
おお あんなにも もの悲しげに
腸をしぼるように
雌を恋うてか 鳴いている鹿の声
まるで おのが悲鳴をきくようだ


煩悩は 地の果てまでも迫ってくる
山を下りて
現し世を引き受けるしかないのだ・・・ 

もろともにあはれと思へ山桜
花よりほかに知る人もなし

吉野山 大峰の奥深く
思いもかけず咲いていた一本(ひともと)の山桜よ

私が おまえをなつかしむように
おまえも わたしをなつかしんでおくれ

里では もう花も散っているのに
春におくれて ひっそりと咲く
わたしたちは 似た者とうしだ

世を忘れ 世に忘れられて
きびしい修行の道にはげむわたしの
それでも 枝いっぱいに生(いのち)を生きる
この心を知ってくれるものは
おまえしかいないのだから 桜よ 

 ブナの林でも同じような気持ちになる。

(*1) 佐々木幸綱編著「百人一首をおぼえよう 口訳詩で味わう和歌の世界」まえがき
(*2) 落語「千早振る」 wikipedia

語義の表現形

新明解国語辞典(第4版)で「さびしい」の語義と用例を読んでいて気がついたことがある。

さびしい【寂しい】(形)
①自分と心の通いあうものが無くて、満足出来ない状態だ。
  「-生活」
②社会から隔絶されたような状態で、心細くなる感じだ。
  「-山道」 
③有ればいいと思うものが無くて、満ち足りない感じだ。
  「ふところが-」「口が-」

形容詞の定義を「~状態だ」「~感じだ」で終わらせるなんて、形容詞とはそういうものだったのかという発見がある。寂しいという気持ちにさえ、そこに救いがみいだされる。もちろん、新解さんの表現形は語意によって揺らいだりはしない。

たのしい【楽しい】(形)
その状態を積極的に受け入れる気持ちが強く、出来ることならそれを持続したい感じだ。

もちろん、語尾は微妙に変化する。例外もある。

しらじらしい【白々しい】(形)
①知っていてしらないふりをする様子だ。
②その事が自分の生活や心情にはぴったりと来なくて、なんとなく空虚な感じを与える様子だ。

しろい【白い】(形)
白の色だ。

新解さんには本当に励まされる。言葉には語義の中に深く沈みこんでいく方法と、高いところから俯瞰する方法があるのかもしれない。

寂しさの底抜けて降るみぞれかな 内藤丈草  

淋しさに花咲きぬめり山桜 与謝蕪村 

前者は深化、後者は俯瞰。新解さんはそんなことを考えさせてくれる。

予感

「どうかご自愛ください」

「お体を大切にしてくださいね」と同じ意味だが優しい言葉だ。相手の周囲に対する細やかな気持ちをおもんぱかり、寄り添う心遣い。「自愛」という字義の通り、本来、自分を大切にすることはとても重要なことだし、丁寧な生き方だといえる。

吉野弘の詩"奈々子に"に、こんな一節がある。

ひとが
ひとでなくなるのは
自分を愛することをやめるときだ。

自分を愛することをやめるとき
ひとは
他人を愛することをやめ
世界を見失ってしまう。


自分があるとき
他人があり
世界がある。

 丁寧さの反語は乱暴。乱暴さの同義語は淋しさ。吉野弘の"日々を慰安が"の一節も反語として悲しい。

日々を慰安が
吹き荒れる。

慰安が
さみしい心の人に吹く。
さみしい心の人が枯れる。

明るい
機知に富んだ
クイズを
さびしい心の人が作る。

明るい
機知に富んだ
クイズを
さみしい心の人が解く。

 「さみしい」は「さびしい」と同意で、主に会話に使われるいくぶん古風な和語。「さびしい」がくだけた会話から文章まで幅広く使われる日常の基本的な和語であるのに対し、「さみしい」は人通りの少ない様子などをあらわすよりは孤独感について使われる傾向があるという。その違いは「さびしい」の用法のひとつの対義語が「にぎやか」であることにも由来する。いずれにせよ"日々を慰安が"で描かれる情景は丁寧さや誠実さとは異質なものだ。

東京や神奈川の街に雪はあまり降らない。吉野弘の"雪の日に”は誠実さを失うまいとする哀しい風景の予感だ。

-誠実に
そんなねがいを
どこから手に入れた。

それも すでに
欺くことでしかないのに。
それが不意にわかってしまった雪の
かなしみの上に 新しい雪が ひたひたと
かさなっている。

雪は 一度 世界を包んでしまうと
そのあと 限りなく降りつづけなければならない。
純白をあとからあとからかさねてゆかないと
雪のよごれをかくすことが出来ないのだ。

誠実が みずからを
どうしたら欺かないでいることが出来るか
それが もはや
みずからの手に負えなくなってしまったかのように
雪は今日も降っている。

雪の上に雪が
その上から雪が
たとえようのない重さで
ひたひたと かさねられてゆく。
かさなってゆく。

三篇の詩は、吉野弘:第二詩集「幻・方法」から。出版は1959年。今から50年以上前の予感だ。自分に対する備忘として。

物語について

ル=グウィン「ギフト」(Gifts )の一節。

その物語はぼくの中に生きている。それがぼくの知る限り、死を出し抜く一番いい方法だ。死は自分が物語を終わらせることができると思っている。物語が自分―つまり死―の中で終わっても、物語が死とともに終わるのではないことを理解できない。(p18)

痺れる。

人はもしかすると「そんな考えはロマンチックではあるけれど、子供じみた考え」と言うかもしれない。そしてそれはある意味正しい。しかし、そんな幻想を持てることも、人というもののあり方や強さ、そして弱さのあらわれかもしれない。

いまやロマンチックであることすら、マニュアル化され、そして過剰なインフレ状態だ。

もっと静かにロマンチックでありたい。吉野弘の詩のように。

生命は
自分自身だけでは完結できないように
つくられているらしい
花も
めしべとおしべが揃っているだけでは
不十分で
虫や風が訪れて
めしべとおしべを仲立ちする
生命は
その中に欠如を抱き
それを他者から満たしてもらうのだ
世界は多分、他者の総和
しかし
互いに欠如を満たすなどとは
知りもせず
知らされもせず
ばらまかれている者同士
無関心でいられる間柄
ときに
うとましく思うことさえも許されている間柄
そのように
世界がゆるやかに構成されているのは
なぜ?

花がさいている
すぐ近くまで
虻の姿をした他者が
光をまとって飛んできている

私も あるとき
誰かのための虻だったろう

あなたも あるとき
私のための風だったかもしれない

(吉野弘、「現代詩入門」、生命(pp.38-40)

そう「世界は多分、他者の総和」、そして私もあなたも「誰かのための虻や風」かもしれない。