okadamktの日記

That's what we call a tactical retreat.

ひまわり花

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ラリー・ニーブンのSF「リングワール」に登場する「ひまわり花」(Slaver Sunflower)。細かい設定は忘れてしまったが、光を集約して攻撃してくる生物兵器だったと思う。

向日性のひまわりの明るいイメージと、それらが無言で集団で攻撃してくるイメージとが相反し、かえって生物兵器としての怖さを醸し出していたように記憶している。人工物としての植物。そこには動物を模したロボットとは違う本質的な矛盾のイメージがある。Slaver Sunflowerという言葉も考えて見ると恐ろしい。

下記の動画、樹木を模した風力発電をする植物状のその姿に、私が必ずしもポジティブになれないのは、そんなところに理由がある。


Wind Tree Uses Micro-Turbine Leaves To Generate Electricity

もちろん、もっとデザインが洗練されれば、私のそんな印象は払拭されてしまうのだろうけれども。

ロボットの進化の方向性

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生き物的という意味で、Boston Dynamicsのロボットには発表された当初から驚かされ続けている。新しいタイプは小型化し動きはさらにスムーズだ。住居内でのデモは軍事と民生のデュアル・パーパスの提示というよりは、アフガニスタンのような野戦地利用から都市部居住地での利用展開へと開発が進んでいるのだといえる。いずれにせよ、Boston Dynamicsのロボットたちは確実に進化している。

 Introducing SpotMini


Boston Dynamics Big Dog (new video March 2008)


ロボットの進化には人間の身体機能の補完という方向もあるだろう。ロボットに独立した身体性を持たせるのではなく、人の一部として有用性を追求する方向だ。その点からiBotも何年か前の動画と比べれば確実に進化している。

 iBOT

 demo of IBOT


上記とはまったく異なるタイプのロボットの進化は身体性を消していく方向だ。Sisyphusを一つのアート系の装置として考えるかロボットとして捉えるかは意見の分かれるところだ。しかし、身体性を消していく方向へのロボット進化系と捉えてもよいのではないかと私は思う。


Sisyphus sand drawing table by Bruce Shapiro:

もちろん進化の方向性は上記に留まるものではない。ある種のカンブリア爆発を目撃しつつあるのかもしれない。

対義語の世界。

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対義語ってこんなに豊かだったんだ。しかも格助詞等を用いた文節や、場合によっては短文に対する対義語という新ジャンル。衝撃的。


そもそも私は誤解していた。対義語を反対語だと思っていたのだ。新解さん(新明解国語辞典)にきいてみよう。

たいぎご【対義語】
①なんらかの意味で一組の関係をなすと認められる、それぞれの語。「父」に対する「母」、「親」に対する「子」、「海・川」に対する「山」、「白」に対する「赤・黒」など。
②反対語

対義語を語義②で捉えるのも誤りではないが、考えてみれば語義①の方が自然だし豊かだ。光に対して闇や影。愛に対して孤独。かならずしも反対の意味でなくても対になっていればよく、それが豊かさにつながる。「絶対にスベらない対義語16選」もまったくもって正しいのだ。

鳥貴族に対して魚民。鳥と魚は対であり、貴族と民も対。そして鳥貴族と魚民が対。なんと美しい構造なのだろうか。

あるいは「逃げるは恥だが役に立つ」に対する「耐えるは美徳だが無駄である」。「逃げる」<=>「恥」<=>「有用」という矛盾をはらんだ三項関係を「耐える」<=>「美徳」<=>「無駄」という別の三項関係へと射影した上で、その両者の関係が現代社会を象徴している。素晴らしすぎる。

すなわち、文節や短文での対義語は、構成するそれぞれの語が対義語となりながら、それらを組み合わせた文節や短文もまた対義語的構造を形成している。

対義語を反対語としない語義①をとれば、語数が多いほど組み合わせは指数的に増え、その中からの選択の妙が美しさを醸し出す。しかも、占いと同じように、抽象的な組み合わせは読み手の解釈を生み、より多義的な深さを増す。

対義語。当たり前だと思っていたものが、こんなに楽しいものだったなんて。

 

VR(仮想現実)の今。

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VRを使った体幹トレーニング。フィットネスマシン兼フライングゲームコントローラ、ICAROS(イカロス)。試してみたいかと問われれば、答はもちろんイエスだ!

www.youtube.com



理想の体型をゲット。さすがのDysonの吸引力。従来にない脂肪吸引マシーン。本当は持ち運びできるポータブルサイズがあれば最高。とりあえずInstagram専用でもよしとしたい。試してみたいかと問われれば、答はもちろんイエスだ!



最後の例は。。。。試してみたいかと問われれば、答はえっと、微妙。

 

餅は餅屋。

古い物言いかもしれないが「餅は餅屋」だと思っている。三味線を習うなら三味線のお師匠さん、大工なら大工の棟梁、植木屋なら植木屋の親方ということになる。では物の使い方なら? たとえばノートの使い方。『文具会社の社員が密かに実践する「ノート術」』というタイトルには思わず釣られてしまう。

 

ノート最大手のコクヨに「ノートの使い方」を習うっていうのは確かにいいアイディアだ。ノートは枯れた商品とはいえ商品開発というプロセスが止まってしまっている訳ではない。枯れた商品だからこそ、コクヨは熱心にユーザーに「今」のノートの使い方を尋ね、分析し、検討しているはずだ。先進的で極端な使い方をする「エクストリームユーザー」との出会いも多いだろう。新しい「はっ」とするような使い方をする「エクストリームユーザー」とはそうそう出会えるものでもない。


もちろんノートも製造物だからすべてのアイディアを採用することはできない。よいアイディアであっても商品に展開できない知恵に類することもあるだろう。しかし、よいアイディアだと感じれば使って試してみたくなるのが人情だ。コクヨの社員はその最前線にいる可能性は高い。しかも、文具の会社に就職しようという人は100%とは言わないものの文具好きである可能性は高い。「好きこそものの上手なれ」、文具のことは文具メーカーの人に聞けだ。

ノートだけではない。同じことはハサミにも言える。ハサミの使い方に一番拘りを持っているのはハサミを作っている会社だ。たとえば「ハサミ エアロフィット サクサ」。コクヨの方には申し訳ないが、ハサミにそんなキャッチコピー、私ならつけない。下記のようなこんな派手な動的Webページにもしない。「どれだけハサミが好きなのか?」という印象を禁じ得ない。だからこそ、この人たちにはハサミの使い方をぜひ聞きたい。


同じことは他の製造業にも言える。ホンダやヤマハにはバイクについて語ってほしい。花王には洗剤の使い方やクイックルワイパーの賢い利用法や掃除の賢いやり方の蘊蓄を聞かせてほしい。自分はしないが化粧のやり方なら資生堂にも話を聞きたいし、アサヒビールであれば格好いいビールの飲み姿に関する彼らの意見を知りたい。その企業が自分のところの製品やサービスを愛しながらどんな風に使っているのかという「使いこなしの上級編」。その会社がやっている「○○教室」ではなく、その会社の社員の方にその人の思いを直に聞いてみたい。企業は人だ。

同じことは図書館や博物館、極端にいえば行政もそうだ。図書館の使い方は司書の人に、博物館の見どころは学芸員の方の話をききたい。行政との付き合い方も同じだ。そこには「ハコ物」からは見えない「人」がいる。ちょっと見では分からない「思い」がある。

餅は餅屋。それはお任せという意味ではない。その人たちが大切にしていることへの共感だと思う。

そこにあるリソースと選択の結果

旧オランダ国鉄を継承したというオランダ鉄道が、運行するすべての列車の動力源を風力発電で運用することに成功したという。列車を運行する電力を100%風力でまかなうのは世界初なのだそうだ。

 

デンマークも電力消費の3割近くは風力発電で賄うという。デンマークは1970年代のオイルショックを契機に、9割以上を輸入原油に頼っていたエネルギー自給率の改善に取り組み、1997年には自給率は100%に達成、2004年に到達した自給率のピーク165%からは下がってしまったとはいえ、2013年の段階で自給率93%だという。

cf. デンマークのエネルギーシステム

 

オランダの人口約1600万人(面積41,526km2、人口密度397人/km2)、九州の人口約1300万人(面積 36,782km2、人口密度307人/km2)。大雑把にいえば、オランダと九州は単純に人口と面積だけを考えればほぼ同じ規模だということになる。デンマークはオランダや九州に比べると人口は少なく約571万人(面積43,094km2、人口密度126人/km2)。こちらも大雑把にいえば、面積はオランダや九州とほぼ同じ規模で人口が1/3程度ということになる。

ということは、やろうと思えば九州でもオランダ鉄道と同じような試みは可能ではないのか。デンマークの事例もオイルショック時点での状況は日本とデンマークとでそれほどの差はなかったはずだ。日本全体は難しくても少なくとも九州でならば、その一部でも同様の取り組みが可能ではなかったのか。

もちろん、人口と面積だけで比較することが乱暴すぎることはわかっている。様々な前提条件も大きく異なるだろう。ただ、オイルショックは1970年代、それから少なくとも40年は経過したのだ。彼我の差はどこにあったのかと思う。オランダやデンマークも1970年代のオイルショックの頃にどこまでできると思っていたのかもわからないのだし、誰かを非難するつもりはない。ただ純粋に彼我の差の要因を分析的に考えることがあってもよいのではないかと思う。

これもまたあまりに乱暴な話だが、たとえば九州の阿蘇郡小国町岳の湯地区に行けば、地熱による蒸気が溢れている。そしてもちろん九州全体で風力や地熱がどの程度の規模で利用できるのかはきちんとは分からない。しかし、九州ならできるのではないかという何らかの可能性も感じるのだ。オランダやデンマークにはできたのだから。

そんなことを、冒頭のオランダ鉄道のニュースについて思った。

 

熊本県阿蘇郡小国町岳の湯地区

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cf. 地熱乾燥材 | 阿蘇小国杉のくらし | 小国町森林組合

 

 

呼ばれたい名前を名札に。

ワークショップに参加すると、よく『今日、呼ばれたい名前を名札に』と言われる。"日頃の肩書きに拘らず気兼ねせずに自由な気持ちで参加してください”という事務局側の配慮なのだろう。"肩書きを気にしてしまう人もいるから"という配慮、事務局側の参加者の気持ちに寄り添いたいという思いの表れだともいえる。確かに○○会社に勤務する△△という名札では無粋だし、その人の内発的なものよりも肩書きの方を見てしまうこともあるかもしれない。その思いは別に間違っているとかいう筋合いのものではない。

しかし、より大きな時間軸の中でワークショップを位置づけるとき、『今日、呼ばれたい名前を名札に』というのは有効なのだろうか。

もし『今日、呼ばれたい名前』がその場の思いつきでつけられていれば、その名は揮発性になる。ワークショップの時間は普通は2時間から3時間、長くて半日。揮発性の名前ではワークショップが終了すれば、あっという間に忘れてしまう。"あの人は面白い人だったな"と感じても「あっちゃん」だったか「やっちゃん」だったかを少なくとも私は覚えられない。天気がいいので「晴れ男」さん、緑が好きなので「グリーン」さんでは、面白くはあるが、それはその場限りのもの。それはそれでもよいのだ。しかし、同時に、それがワークショップ事務局が本当に実現したかった参加者間の関係性なのだろうかとも思う。

ワークショップの時間は限定されている。ワークショップはきっかけに過ぎない。もし、ワークショップをきっかけにして、何らかの人と人とのつながりまでをワークショップの意義として設計したいのであれば、『今日、呼ばれたい名前を名札に』は参加者に対しての最適な働きかけではないのではないかと思う。その場の思いつきの『呼ばれたい名前』は不便なのだ。

その意味で、『今日呼ばれたい名前』を促す事務局は参加者に配慮しているようで、実はそうではないのではないかと心の中では思っている。それよりは下記のリンクにあるように、『ネット上の通り名』を使う方がよっぽどスマートだと思う。  

 

ゲド戦記の中にある「真の名」は必要ではない。しかし、時間軸の中で継続する「アイデンティティーとしての名」でなければ、渋谷の交差点で偶然すれちがった人との立ち話(それはそれで面白いが)になってしまう。他者は他者ではなく、自己に投影されたイメージの中の影のような存在になってしまう。そんな風には思う。