okadamktの日記

That's what we call a tactical retreat.

心がざわつくとき

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3Dプリンターって面白いなぁと思う。

最初に話を聞いたのはいつ頃だったろうか。私の場合は、たぶん2005年くらいにスイス連邦工科大の経営学の教授から「インクジェットの未来系としてステーキをプリントアウトする可能性について検討しているグループがいる」という話を聞いたときだと思う。そのときはまさかそれが現実味を帯びた話にだんだんとなってくるとは思ってもみなかった。

へ~と思うと同時に半分冗談だと思っていたのだ。それがどんな可能性につながっているのかについて深く考えることができなかった自分がいる。

技術が進めば様々な可能性が拡がる。デルフト工科大を訪問したときに、3Dで油絵の具の微妙なタッチまでが印刷されたレンブラントの「ユダヤの花嫁(イサクとリベカ)」のレプリカを見たとき、自分の想像力の足りなさを痛感した。


Océ 3-D Fine Art Reproductions

デルフト工科大の取り組みを知る以前は、自分は3Dプリンターとは何かを造形するものと捉えていた。デルフト工科大のアプローチはそれとは異なる。深さ方向に解像度の高い3Dスキャナーを開発し、絵画のテクスチャーの再現、その質感の再現を目指したものだ。少し極論すれば、それは造形ではなく、感覚の再現を目指したものだ。3Dプリンターのまったく異なる方向への展開ともいえる。


骨格や臓器をそのまま3Dプリントするという話はそれに比べればよく聞く話かもしれない。しかし、実際にCTスキャンデータから3Dプリントアウトされるアカハライモリの動画を見ると、そしてその3Dデータは今後CT生物図鑑として公開が予定されているという話を聞くと、最初に3Dプリンターの話を聞いたときと同様、自分がまったくこれまでとは違う可能性を見落としているかもしれないとも思えてくる。

 

自分の中で、従来のアプローチとの差分がうまく言葉にできているような気はまだしない。ひとつはCTスキャンで生きているイモリからのデータを採取したことから、ある特定の時間軸のなかで切り取られた「生きた存在」のスナップショットとして心がざわついたのだとは思う。それは「生物図鑑」の概念をまったく変える、たとえば骨格だけではあっても「生物図鑑:私」が可能なことを示唆するからだ。

しかし、そこにはまだ言葉にできない可能性が潜んでいるのではないか。そんな風に私のゴーストは囁く。

技術のわかりやすさ

イントラロックス社のアクティベィテッドローラーベルト(Activated Roller Belt)技術のデモ映像をみた。

従来のただ流れるだけのベルトコンベアーとは違い、荷物はベルトの上を流れながら、まるで生きているかのように、一列になり、向きを変え、中央に集められたり、横に並んだりしていく。初めてみたとき、思わず「なんだこれは・・・」と呟いてしまった。

物が生きているかのように動き回る? 自動で仕分けをするコンベアが登場。... - Timeline - タイムライン | Facebook

世間ではAIがすごいと言っている。きっと凄いのだろう。しかし、上記のアクティベィテッドローラーベルトのわかりやすさもすごくはないだろうか。自動化とその結果がこれ以上ないという形で目に見えるすごさだ。

これを使うと、従来の『A』が不要になり『B』が簡単に実現できます。その結果『C』が可能となり『D』になります

営業マンが工場の現場責任者にこんな説明をしている様子が目に浮かぶ。技術のわかりやすさというのはこんな風なものなのかもしれないと思わせる本当によくできた映像だと思う。

cf: ARB自動化装置

居残り佐平次

「やっぱり人としての理想は居残り佐平次だよね」と常日頃思っている。

だから打合せなどで「居残り佐平次」と言って通じないと、それはそれでちょっと悲しいもんだ。佐平次とは「図々しい人間」を意味する隠語だという。フランキー堺が演じた幕末太陽傳の主人公も原型は居残り佐平次だ。

でも、それはそれ。

"江戸っ子は五月の鯉の吹流し、口先ばかりではらわたはなし"。啖呵も、調子のよさも、なんの戦略性もない、思いつき。行き当たりばったりの出鱈目さ。"でへへ、うれしくなっちゃうぜ"という気楽さ、明るい迷惑、底のなさ。そんな性格を地で行くような佐平次の中身のなさに憧れる。

何年か前に神奈川県民ホールで聞いた談春の佐平次も明るくってよかったなぁ。

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YouTubeでは志ん朝の佐平次も聴ける。中盤過ぎてからのこのいい加減さ。嬉しくなる。古今亭志ん朝 (三代目) Shincho Kokintei 居残り佐平次 落語 Rakugo 



談志もいいなぁ。立川談志 Danshi Tatekawa ずっこけ 居残り佐平次 落語 Rakugo

 

 

ああ、サウイフモノニ ワタシハナリタイ。

心理的な近接性

「彼には彼の時間がある」と思いつつ、子どもが乗った飛行機を夫婦で眺めるなんて、つくづく自分たちは親ばかだなと思う。

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それにしても、航空機の現在位置をほぼリアルタイムで表示するWebサービス「Flightradar24」はすごい。まるで自分たちもその飛行機に乗って空を飛んでいるような錯覚を与えてくれる。

「いまシベリアの上空だね」
「もうすぐバルト3国のエストニアの上だよ」
「もうすぐデンマークだ」
「あ、飛行場が見えてきた」 

親ばかな会話が続く。結局、着陸する瞬間まで、しかも着陸シーンは3D画像の設定にして見てしまった。

ーーー

VR(Virtual Reality : バーチャルリアリティ)とは、結局、「どれだけ自分がそこにいるような感覚に浸れるか」ということに尽きる。工学的には五感を含む感覚をどれだけ適切に刺激するかとか、視野の中でどれくらいの範囲に映像が広がっているか、自分の身体の動きに合わせて何が起こるかというフィードバック感などになるだろう。しかし、それだけではない。自分が見たり聞いたり触れたりしている世界に自分がどれだけ親近さを感じるか、心理的な近接性(proximity)を感じるかによると思う。

たとえばテキストベースのチャットであっても、チャット画面の向こう側にリアルな「人」を感じることができれば人は没入できる。心理的な近接性から、まるで実際の会話をしているように感じることができる。画面の向こうの人と同じ時間、同じ空間を共有しているかのように感じる。

それは読書体験にも似ている。登場人物がすぐそこにおり、風景や出来事の中に自分もいるように思える感覚にも近い。

「Flightradar24」は、地球というスケールで、いまこの瞬間に何が起こっているかを垣間見せてくれる。そして、その飛行機の一つに自分の知り合いが乗っていると思えば、それは世界と自分とがきわめてリアルにつながっていることを肌感覚として伝えてくれるものとなる。あるいは、それぞれの飛行機のアイコンは単なる絵ではなく、リアルに誰かの人生や物語につながっているものだと。

単なる親ばかではなく。

「パワー」(Powers)

ル=グウィン、西のはての年代記 Ⅲ「パワー」(Powers)。

都市国家群のひとつエトラの少年奴隷ガヴィアには未来に起こることがらを「ヴィジョン」として見る力がある。しかしその彼の力が4つの章に分かれて語られるこの物語の主軸になることはない。それがこの物語と、西のはての年代記I「ギフト」(Gifts)や年代記Ⅱ「ヴォイス」(Voices)とで趣を異にする部分である。

物語の主役は社会の力そのものだ。それは希望を与え希望を奪う。登場人物たちの価値感は夢のように儚く脆い。その力は他者から奪うことを是とさせ、人々の生き方を歪める。あるいは無機質な生き方を強いる。

主人公の一人バーナは少年ガヴィアにいう。

どんなふうだったか、わたしにはわかる。きみは大きな館――都市の富裕な館の奴隷だった。そこの主人たちは親切にも、きみが教育を受けられるように取り計らってくれた。ああ、わたし自身、よく知っているんだ。それがどういうことか。きみは、自分は幸せだと感じるべきだと思っていた。きみには、学び、読み、教える力が――賢い人、学識のある人になる力があったから。それは、主人たちが与えてくれたものだ。主人たちがそれをもつことをきみに許したのだ。そうだとも! だが、何かをする力を与えられても、きみは、誰かの、あるいは何かの上に及ぼす力はもっていなかった。そういう力は彼らの――主人たちの、きみの所有者たちのものだったから。そして、きみが自覚していたかどうかは別として、きみは自分の体の骨の一本一本に、きみの心のすみずみに、きみをつかみ、操り、おさえつける主人の手を感じていたはずだ。そういう条件では、どんな力をきみがもっていたとしても、それは価値がない。なぜならば、それは、きみを通して働く彼らの力にほかならないからだ。彼らは君を利用していたんだ・・・。きみがそれを自分の力だというふりをすることを、彼らは許していた。きみは、ほんのひとかけらの自由を主人たちから盗み、それが自分のものであり、きみに幸せを感じさせるのに十分であるかのように装った。そうだろう?(p.260-261)

バーナの言葉は正しい。ガヴィアは苦痛をもってそう思う。なぜならその言葉はガヴィアのかつての美しい世界を破壊する事実だからだ。

バーナの世界もまた一瞬のうちに変容する。それをガヴィアは無感動に受け入れる。「パワー」(Powers)という物語に通奏低音のように流れるのは無力感だ。「敵」は去ったのか? 「自由」は得られたのか? 

それは読者に委ねられる。

静かな雪の夜のように

ル=グウィン「ヴォイス」の一節が頭を離れない。長らくオルド人の武力的な圧政下で虐げられてきた都市アンサルが自由への一歩を踏み出しつつある瞬間の一節だ。

 応接室にもどると、議会や選挙や法による統治と言った話題よりも、襲撃だのオルド人虐殺だのというほうに議論が傾いていた。もっとも、そうあけっぴろげに話をしていたわけではなく、兵力の終結、市内の諸勢力の団結、武器の備蓄、最後通牒といった言葉が使われていた。
 その後、今日まで、わたしはあのとき聞いたことと彼らの用いた言葉づかいについて何度も考えた。男は女と比べると、人間を生身の肉体をもつ命としてではなく、数として――頭の中の戦場で思いのままに動かす、頭の中のおもちゃとして――とらえがちなのではないだろうか。この非肉体化によって、男たちは快楽を感じ、興奮し、行動したいから行動するということをためらわなくなる。人間を数として、ゲームの駒のように操縦することをなんとも思わなくなる。その場合、愛国心とか名誉とか自由とかいうのは、神に対して、そのゲームの中で苦しみ、殺し、死ぬ人々に対して言い訳をするために、その快感に与える美名に過ぎない。こうして、そういう言葉――愛、名誉、自由――は、本当の意味を失い、価値が下落する。すると人々はそれらの言葉を無意味だと見下すようになり、詩人たちは、それらの言葉に真実の意味を取り返してやるため、奮闘しなくてはならない。(p.284)

ル=グウィンらしい痛烈な洞察に満ちた文章だと思う。

そうなのだ。ほんの少し油断するだけで、私たちは、さまざまなことを概念化と称し、駒のように操作しはじめる。そのこと自体の意味を自らに問うことをおろそかにしてしまう。スピードや効率や効果といった操作のための指標にだけ注意を向けてしまう。賢いということの意味を履き違えはじめてしまう。喜びをもって。

「読むことは、かつてわたしたちみんなが共有していた能力だった」道の長が言った。長の声はもはや穏やかではなかった。「もしかすると今こそ、わたしたちみんがが、それを学びなおすときなのかもしれない。いずれにせよ、与えられた答えが理解できるまでは、新しい問いを発してもむだだ」
「理解できない答えになんの益がありましょう?」
「噴き水の水は、おまえが満足するほど澄んではいないと言うのか?」
わたしは道の長がこれほど怒っているのを見たことがなかった。白刃のような冷たい怒りだった。(p.286)

日々の生活の中で、わたしたちが何を得、何を失ってしまったのか。ノスタルジーに浸るのではなく、反発をエネルギーにするのでもなく、テレビを消し、音を消し、振り返るときなのだと思う。

ヴォイス

ル=グウィン、西のはての年代記 II、「ヴォイス」(Voices)。西のはての南部に位置する海港都市アンサルに暮らすメマー・ガルヴァという少女の物語。そしてそれは「問い」と「答え」の意味に関する物語でもある。

「ヴォイス」の中で問いと答えの関係はかく語られる。

かの優れた読み手、ダノ・ガルヴァはこう言った。『わたしたちの求めるのは真の答えではない。我々の探す迷い子の羊は真の問いだ。羊の体のあとにしっぽがついてくるように、真の問いには答えがついてくる』(p.177)

しかも得られる答え(お告げ)は隠喩的であり、それが具体的にどのようなことを意味しているのかはかならずしも明かではない。主人公のメマーは思う。

お告げは命令を下すのではない。その逆で、考えるように促すのだ。謎に対して思考を寄せることを、わたしたちに求めるのだ。考えて行動した結果が思わしくなくとも、それがわたしたちにできる最善のことなのだ。(p.191)

メマーの師でもあるガルヴァ家の当主である道の長はいう。

「読むことは、かつてわたしたちみんなが共有していた能力だった」
「もしかすると今こそ、わたしたちみんなが、それを学びなおすときなのかもしれない。いずれにせよ、与えられた答えが理解できるまでは、新しい問いを発してもむだだ」(p. 186)

それはなぜか。

はかりしれない謎にたいして理にかなった思考を寄せる(p. 195)

それこそがもっとも大切だからなのだ。