頑張るということ
よくテレビなどで、「リハビリを頑張ったので・・・」という台詞を聞く。しかし、特に何も感じず聞き流していた。「リハビリをちゃんとしたってことでしょ?」程度に思っていた。実感がなかった。
年末に骨折をして3ヶ月。骨に関しては医師から「もう次回からレントゲンも撮らなくてよい」と言われた。しかし、腕は上がらない。なんとか水平の位置まで上がれるかどうか。それ以上はイテテテテな感じ。
リハビリを頑張っていないからだと思う。
小学生のピアノの練習のように、「やっておいてね」と言われた毎日のリハビリも、ほんのときたま思い出し、申しわけ程度にするだけ。腕がきちんと上がらないことは不自由だが、すごく不自由というわけではなく、その中途半端な不自由さも、自分が頑張らない理由になっている。
リハビリを頑張るということ。
何気なく聞き流していたが、それはすごいことなのだなぁと実感する。いまある状態に甘んじない意思。そういう生き方はしてこなかったなと思う。そのツケといえばそうともいえる。
医師も理学療法の担当も、今回のレントゲンの結果を受け、「頑張りましょうね」という。
ああ、そんな風に応援されたことも、励まされたことも久しぶりだ。オブローモフ主義という言葉を久しぶりに思い出した。
ちょっと頑張ろうかなという気に今はなっている。
批判疲れ
そういう表現が好きな人には申しわけないが、「○○疲れ」という言葉を安易に用いることが私は好きになれないでいる。
流行の言葉に『疲れ』という単語を加え、それだけで「最近はなんかこういう気持ちだよね」とする演出態度の安易さが好きになれない。『疲れ』という言葉で醸し出される空気を利用する浅さと軽薄さに無自覚な感性も好きになれない。
その好きになれない気持ちは、「某○○」という言葉使いに対する感覚にも似ている。過剰な反応と言われるかもしれないが、私はそこに、「知っているよね~」という少し押しつけがましい同調圧力を感じて不愉快になる。名前を出すならきちんと出し、出さないなら完全にぼやかせばよい。そう私は思う。
それが、今日までの私のほぼ一貫したスタンスだった。
ただ、下記の「批判疲れ」という用法について、上記のスタンスを貫けない自分がいる。安易だとは言い切れない。
それは、「批判疲れ」という空気が醸成する先にある世界の感触にあまりにリアリティがあり、従来の「○○疲れ」という言葉と一線を画しているかもしれないと思えるからかもしれない。
身体を使うゲーム性
子どもの頃、ツイスターというゲームが流行った世代だ。検索してみて、「タカラトミーで今でも売っているのか!」という別種の感慨さえ生まれる。
http://www.takaratomy.co.jp/products/twister/
ツイスターの楽しさは、スポーツ未満で、身体性を持ち、適度なゲーム感(挑戦性)があったことに起因する。身体を使いながらのゲーム性と手軽さがほどよいバランスだったし、シンプルでわかりやすいよくできたゲームだった。誰もが「あっ、ちょっと自分もやってみたいな」と思える娯楽性があり、実際にやってみると子ども心に楽しかった。
Augmented gaming climbing wall(拡張ゲームクライミングウォール)は、そんなツイスターにちょっと似ている。スポーツクライミングのストイックさを上手に外して、大人も子どもも「ちょっと遊んでみたいかも」と思わせるるバランスがいい。
ブロッコリーの樹
子どもの頃には、ブロッコリーは食べなかったなぁと思う。
アブラナ科アブラナ属の花の総称を菜の花という。また菜の花の菜とは食用という意味である。ブロッコリーはアブラナ科アブラナ属で花の部分を食用としている。以上のWikipediaの記事の記述を信じれば、こういうことになる。
- アブラナ科アブラナ属の花の総称を菜の花という
- 菜とは食用ということである
- ゆえに、菜の花とは食用であるアブラナ科アブラナ属の花の総称である
- ブロッコリーはアブラナ科アブラナ属である
- ブロッコリーは花の部分を食用としている
- ゆえに、ブロッコリーは菜の花である
- ゆえに、ブロッコリーのゴマ和えは、菜の花のゴマ和えである
7の帰結が美味しいかどうかは別として。
Wikipediaによれば、ブロッコリーは地中海沿岸の原産、花を食用とするキャベツの一種がイタリアで品種改良され現在の姿になったとされるという。食用とするのは蕾の状態の花序と茎であり、収穫せずに栽培を続けると巨大になった花序に多数の黄色やクリーム色の花をつけるともある。
以前、近所の畑で見かけたものは、多数の黄色やクリーム色の花をつける前のものだったということになる。
近くによれば巨木のようだ。
しかしこれは花たち、正確には蕾の状態の花序と茎なのだ。
自然の形は面白い。
雛の調度
うつくしきもの・・・雛の調度。
写真の雛飾りを福岡に住んでいた頃に飾っていた。狭い部屋のサイドボードの上においてあったから『裏店やたんすの上の雛祭り』(高井几菫)が適切か。
それぞれのお飾りは毎年少しずつ買い足されていった。縮緬のお雛さまたちも最初は中央の二つだけ。ほかの子は後から徐々に仲間入りした。牛車などのお道具は雛飾りを見に行ったときに日田の小さなお店で買ったもの。
一番古いお飾りは実は後ろのぼんぼりで、これは福岡よりもずっと前の結婚前に買ったおぼこ雛についていたもの。屏風も後から別に買ったもの。その他、近所の店で買い足したものなどいろいろ。
雛祭りの時期になるとこの写真を思い出す。
なにもなにも、ちひさきものはみなうつくし。
(2006年2月25日, mixi改)
リアルとフェイクの質的な境界
中野にあるキリン本社の受付のソファーに何気なく出川哲朗のリアル人形が座っていてちょっとビックリ。受付の人に内緒でちょっと触ってみて、そして改めてしげしげとみる。髪の毛の部分も植毛してるし、肌の質感とかもものすごくリアルだった。
リアルとフェイクの境目がどんどん曖昧になっているなと思う。それはAIとかフェイクニュースとかそういうことではなく、もっと造形的にとか運動的にといった質感のレベルで。
A company makes creepily realistic babies
Boston Dynamic's Newest Robot Is Like A Horse On Roller Skates