okadamktの日記

That's what we call a tactical retreat.

アオキの花

アオキの実は赤く美しい。庭木としても鑑賞用によく植えられている。アオキの実の季語は冬。

種は実を食べた鳥によって散布され、またそれほどの明るさを必要とせず成長する。だから、アオキは都市部の薄暗い林でも普通に生えている常緑の低木だ。目黒にある国立科学博物館の附属自然教育園は、園内をできる限り自然の本来の姿に近い状態で残そうという方針で運営されているため、正直、アオキだらけだ。

薄暗い林でいくらでも生えてくるので、それ自身は有用な植物ではあっても、アオキ・ヤツデ・シュロは、いわゆる都市部の緑地保全緑地ではあまり大切には扱われない。どちらかといえば増えすぎるから、除伐の対象にすることも多い。大切にしないと注意してみることもなくなってしまう。私にとってアオキはそんな植物だった。

アオキの花は春の季語。そんなことも知らなかった。

青木の花のさかりも知らずあたたかき(松尾松蘿)
竹林のひかりを侍み青木咲く(松田純栄)

今日、初めて、アオキの花を認識した。小さな可憐な花だ。雌雄異株というから、これは雄株か。

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年末に大規模に除伐して拓けた谷戸に実生で咲いていた。

壁の乗り越え方

壁の乗り越え方には複数の方法がある。下記のリンクの絵をみてそう思う。f:id:okadamkt:20170409073221j:plain

組織の壁をどう越える?「バウンダリー・スパニング・リーダーシップ」とはより)

ジョージ・ガモフの「不思議の国のトムキンス」では、主人公のMr. トムキンスは、光の速度が自動車程度の速度だったり、量子力学の性質を特徴づけるプランク常数がとても大きな世界で不思議な経験をする夢をみる。(不思議の国のトムキンス - Wikipedia

プランク常数がとても大きな世界では、壁は乗り越える必要がない。トンネル効果で通り抜けることができるからだ。Mr. トムキンスの見たのは夢だったが、現実も、壁自体は我々の心の中にあるのかもしれない。心のプランク常数を大きくすれば、通常世界では起こらないと思っていた不思議なことが起こる。

「そんなことはやっぱり心の中のことでしょう、壁はやっぱり乗り越えなければ」という体力に秀でた方には、壁の下に穴を掘る作戦をお進めしたい。私は乗り越える派ではなく、穴を掘る派だ。

でも本当は、「よく見たら、ドアがあるじゃん」とか「ちょっと先で壁が途切れてた」とか、そういうこともあるかもしれない。私はそういうのを発見するのが一番好きだ。

発見には、演繹的な論理や帰納法的な論理だけではなく、仮説的推論発見のため論理的推論(アブダクション)も必要だ。自分にはできていなくても壁を乗り越えている人がいるのであれば、その理由があるはずだ。

心のプランク乗数を大きくするということは、「なぜ」に対する自分の心の門戸を開くことに他ならないと私は思う。


 

ミスキャスト

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亡くなってしまった古い友人がよく「ミスキャスト」という言葉を使っていた。その人が持つ本来の能力や個性に対して、その人が就くべきでない役職やポジションに就いてしまっている状態をさす。昨今のTVニュースを観ながらときどきその言葉を思い出す。

ミスキャストという言葉が描く世界観は、すべての管理職は無能であるとするピーターの法則とはまた異なったものである。

ピーターの法則は、ユーモアを交えて、現実世界を以下の3つの視点で切り取ったものだ。

1. 能力主義の階層社会では、人間は能力の極限まで出世する。したがって、有能な平(ひら)構成員は、無能な中間管理職になる。
2. 時が経つにつれて、人間はみな出世していく。無能な平構成員は、そのまま平構成員の地位に落ち着く。また、有能な平構成員は無能な中間管理職の地位に落ち着く。その結果、各階層は、無能な人間で埋め尽くされる。
3. その組織の仕事は、まだ出世の余地のある人間によって遂行される。(ピーターの法則 - Wikipediaより)

友人が言っていた「ミスキャスト」という言葉はそれとは違う。より暗いニュアンスだ。「能力」とは異なる要因によって、その人では不適切な「役割」に就いた状態を記述する言葉だ。

ミスキャストも、ミスキャストによって何かが上手く機能しなくなることも、現実世界ではよく起こる。それを止める有効な手段はない。友人がよく言っていた別の言葉は、「馬鹿の再生産」と「馬鹿は馬鹿を呼ぶ」だった。皮肉な表現形だが、現実には、ままそれは起きる。ミスキャストは連鎖するのだ。

我々にできることは多くない。自分がミスキャストの直接・間接の当事者になってしまう可能性に、どれだけ自覚的でいられるかぐらいだろう。ミスキャストによる被害を無くしたり最小にする努力も無駄だ。ミスキャストの被害を打ち消すことはできない。ミスキャストによる混乱であれば、被害を無くそうと努力も「ミスキャスト」の影響下での実施になる。マーフィーがいうように、予想される不幸な事態はすべて起こる。上手くいかないという事態も当然含まれる。被害は逆に拡大する。最終的にはなすすべもなく立ち尽くすことになる。

ミスキャストに自覚的であることは難しい。無自覚であることが「ミスキャスト」の構成要素の一部でもあるからだ。

かといって微妙な自覚もまた不幸な結果を呼びやすい。ミスキャストされてしまった本人については、ミスキャストに無自覚であることよりも、ミスキャストの自覚を歪んだコンプレックスという形で表出した場合に、周囲により不幸な事案を引き起こす可能性もある。

「ミスキャスト」者の歪んだコンプレックスは容易に他者への攻撃性へと変化する。結果生まれる怨嗟は淀んだ空気として世界に蔓延する。

ディストピアの「1984年」を「走れメロス」のように読みかえると言ってもよい。「走れメロス」の王の主観にたって「1984年」を読み解くでもよい。

ニュースピークスの本来的な意図は「ミスキャスト」者のコンプレックスをかき消すことにある。教条主義も実に便利だ。迎合する行為にも合理的なメリットもある。「走れメロス」の王や「1984年」の世界を支えていた周囲のモチベーションは、かならずしも「恐怖」だけではない。

ミスキャストは非合理な世界を象徴する。ミスキャストの非合理性は当事者のコンプレックスと相まって非合理的なより不幸な事象を引き起こす。そしてそれを持続可能とするのは周囲の合理的な行為である。

今日は天気が悪い。その上奇妙なニュースばかりを見続ければ気持ちも当然暗くなる。二重思考はかく生み出されたのではないかと思う。

「1984年」を久しぶりに読み直してみようかと思う。

 

下妻物語

久しぶりに映画「下妻物語」を観る。

好きな映画なんだよなぁ。深田恭子も土屋アンナもいい。ジャスコや荒川良々や牛久大仏ほかワキもいい。ちなみに、今回初めて、真木よう子がちらっと出演していることに気がついた。

深田恭子演じる主人公はロココ調好き。カーディガンと言ったら常にピンクしか買わなかったドロシーに、『君みたいだね』と以前いったら、『あたしはビクトリア調よ』との答えが戻ってきた。そうか猫足の家具はビクトリア調なのかと妙な納得をした。

それにしても、君は卒業公演のときだって衣装に変な刺繍していたし、友達は鯨・フランソワーズ・妙子って署名の葉書送ってくるし。それに、そもそも友達少ないじゃ・・・・・と言いかけて止めた。

そんなこともあり、「下妻物語」は好きな映画なのだ。

頑張るということ

 

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よくテレビなどで、「リハビリを頑張ったので・・・」という台詞を聞く。しかし、特に何も感じず聞き流していた。「リハビリをちゃんとしたってことでしょ?」程度に思っていた。実感がなかった。

年末に骨折をして3ヶ月。骨に関しては医師から「もう次回からレントゲンも撮らなくてよい」と言われた。しかし、腕は上がらない。なんとか水平の位置まで上がれるかどうか。それ以上はイテテテテな感じ。

リハビリを頑張っていないからだと思う。

小学生のピアノの練習のように、「やっておいてね」と言われた毎日のリハビリも、ほんのときたま思い出し、申しわけ程度にするだけ。腕がきちんと上がらないことは不自由だが、すごく不自由というわけではなく、その中途半端な不自由さも、自分が頑張らない理由になっている。

リハビリを頑張るということ。

何気なく聞き流していたが、それはすごいことなのだなぁと実感する。いまある状態に甘んじない意思。そういう生き方はしてこなかったなと思う。そのツケといえばそうともいえる。

医師も理学療法の担当も、今回のレントゲンの結果を受け、「頑張りましょうね」という。

ああ、そんな風に応援されたことも、励まされたことも久しぶりだ。オブローモフ主義という言葉を久しぶりに思い出した。

ちょっと頑張ろうかなという気に今はなっている。

www.vangoghmuseum.nl

金環蝕

Amazonプライムで、ダム開発を巡る汚職事件をモデルにした邦画「金環蝕」を観る。1975年の映画だが、当時は中学生で上映されているのを知っていたレベルでしかない。原作が石川達三だということも知らなかった。

仲代達矢のヌメッとした感じも面白いが、なんといってもこの映画、金融王の石原参吉役の宇野重吉がすごい。宇野重吉が演じるのは新藤兼人の「愛妻物語」のときと真逆の強烈な個性だ。

 

批判疲れ

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そういう表現が好きな人には申しわけないが、「○○疲れ」という言葉を安易に用いることが私は好きになれないでいる。

流行の言葉に『疲れ』という単語を加え、それだけで「最近はなんかこういう気持ちだよね」とする演出態度の安易さが好きになれない。『疲れ』という言葉で醸し出される空気を利用する浅さと軽薄さに無自覚な感性も好きになれない。

その好きになれない気持ちは、「某○○」という言葉使いに対する感覚にも似ている。過剰な反応と言われるかもしれないが、私はそこに、「知っているよね~」という少し押しつけがましい同調圧力を感じて不愉快になる。名前を出すならきちんと出し、出さないなら完全にぼやかせばよい。そう私は思う。

それが、今日までの私のほぼ一貫したスタンスだった。

ただ、下記の「批判疲れ」という用法について、上記のスタンスを貫けない自分がいる。安易だとは言い切れない。

www.nishinippon.co.jp

それは、「批判疲れ」という空気が醸成する先にある世界の感触にあまりにリアリティがあり、従来の「○○疲れ」という言葉と一線を画しているかもしれないと思えるからかもしれない。