okadamktの日記

That's what we call a tactical retreat.

言葉と鳥と島への愛に満ちた啓蒙書:川上和人 『そもそも島に進化あり』

本書は、海に囲まれた「島」という存在が生物の進化にどのような意味をもつのかを考察しており、一般的には科学啓蒙書のジャンルに属している。

著者は、「ここに海終わり、島始まる」と、読者を島嶼という環境のもつ生物学的な魅力へと誘う。島嶼という字が読めなくても心配ない。島には青い空と白い雲が広がっている。本書は「島」と「生物の進化」との関係を通奏低音としながら、著者とともに人生の機微を呵呵と大笑するための本でもある。著者自身の島と鳥への愛に思いをはせ、島と生物学の魅力を味わいつつ、読者は愉快な休日を過ごすことができるだろう。もちろん、私も島嶼を読めなかった。

目次にも注目してほしい。

はじめに ここに海終わり、島はじまる
序 そもそも島は
第1章 島が世界に現れる
第2章 島に生物が参上する
第3章 島で生物が進化を始める
第4章 島から生物が絶滅する
第5章 島が大団円を迎える

読み進めるにつれ、読者は著者が描写する「島と生物の進化との関係の特殊性と一般性」に触れ、その意味に囚われてしまうことだろう。

もし読者が「島」にも「鳥」にも「生物の進化」にも興味がないとしても心配ない。「ヒットガール」「ダメ!絶対!」「モンゴリアンデスワーム」「ジャイアンなき後のスネ夫による暗黒支配」などのキーワードに反応する感性をお持ちなら、十分本書を著者とともに楽しむことが可能だ。

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それにしても、「第5章 島が大団円を迎える」とは、久しぶりに目次に「大団円」という文字を見た。目次に躊躇なく「大団円」という言葉を記す感性は、遠藤周作か北杜夫か源氏鶏太ぐらいのものである。人生に対する達観と暖かな視座と洒脱を楽しむ気持ちが伝わってくる。科学的な視点をある種の詭弁・強弁の類いとするバランス感覚も楽しい。

バランス感覚は各章を構成する目次にも現れている。たとえば、海に囲まれた存在である島への生物の様々な到達方法を記した「第2章 島に生物が参上する」は、以下の7つの項から構成されている。

1. 島に招くには、まず隗より始めよ
2. 食べれば海も越えられる
3. 太平洋ヒッチハイク
4. ビッグ・ウェンズデー
5. 風が吹けば、誰かが儲かる
6. 早い者勝ちの島
7. 翼よ、あれが島の灯だ 

 島の生物の不安定さについて記した「第4章 島から生物絶滅する」は、以下の5つの項から構成されている。

1. 楽園の落日
2. 闘え! ベジタリアン
3. プレデター vs エイリアン
4. 拡散する悲劇
5. カガヤクミライ 

この構成から、本書が生物に関する啓蒙書であることを逆演算することができるならば、おそらくあなたは天才なのだろう。

生物の進化の妙を記した「第3章 島で生物が進化を始める」の「6. 植物がかかる島の病」「7. フライ、オア、ノットフライ」は、それぞれ以下の5つの項と8つの項に分かれている。

・沈めタイヤキ君
・多機能も、いずれは宝がもち腐れ
・見上げればいつもと違う草
・耐えられる存在の地味さ
・ヘルマフロディトスからの脱却 

・さらば空よ
・用がなければ飛びません
・小さくて低いのは、お嫌いですか
・無理はしません
・悪魔との契約
・引きこもりの進化
・鳥類肉体改造化計画
・念のため、鳥以外もみておくか 

本を読む愉しみはさまざまだ。そして「言葉を愉しむ」ことは、その中でもなかなか得がたい愉しみの一つといえる。本書はその愉しみを、思う存分味あわせてくれる。言葉がことばを引き出す言葉のダンス。北杜夫や遠藤周作のエッセイには確かにそれがあった。立川談志の落語の魅力も一部そこにある。言葉は飛びはね、跳ね返り、科学的概念とともに楽しく踊っている。

目次だけでもこの愉しさなのだ。そして本書は啓蒙書だ。挿し絵、脚注、概念の抽象化、具体化、すべてを総動員されている。文末の「参考になるかもしれない本~島への興味に心を動かされた読者のために~」では、さりげなく森村桂「天国にいちばん近い島」があげられている。すべては「島」と「鳥」への愛ゆえに。

アオキの花

アオキの実は赤く美しい。庭木としても鑑賞用によく植えられている。アオキの実の季語は冬。

種は実を食べた鳥によって散布され、またそれほどの明るさを必要とせず成長する。だから、アオキは都市部の薄暗い林でも普通に生えている常緑の低木だ。目黒にある国立科学博物館の附属自然教育園は、園内をできる限り自然の本来の姿に近い状態で残そうという方針で運営されているため、正直、アオキだらけだ。

薄暗い林でいくらでも生えてくるので、それ自身は有用な植物ではあっても、アオキ・ヤツデ・シュロは、いわゆる都市部の緑地保全緑地ではあまり大切には扱われない。どちらかといえば増えすぎるから、除伐の対象にすることも多い。大切にしないと注意してみることもなくなってしまう。私にとってアオキはそんな植物だった。

アオキの花は春の季語。そんなことも知らなかった。

青木の花のさかりも知らずあたたかき(松尾松蘿)
竹林のひかりを侍み青木咲く(松田純栄)

今日、初めて、アオキの花を認識した。小さな可憐な花だ。雌雄異株というから、これは雄株か。

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年末に大規模に除伐して拓けた谷戸に実生で咲いていた。

ブロッコリーの樹

子どもの頃には、ブロッコリーは食べなかったなぁと思う。

アブラナ科アブラナ属の花の総称を菜の花という。また菜の花の菜とは食用という意味である。ブロッコリーはアブラナ科アブラナ属で花の部分を食用としている。以上のWikipediaの記事の記述を信じれば、こういうことになる。

  1. アブラナ科アブラナ属の花の総称を菜の花という
  2. 菜とは食用ということである
  3. ゆえに、菜の花とは食用であるアブラナ科アブラナ属の花の総称である
  4. ブロッコリーはアブラナ科アブラナ属である
  5. ブロッコリーは花の部分を食用としている
  6. ゆえに、ブロッコリーは菜の花である
  7. ゆえに、ブロッコリーのゴマ和えは、菜の花のゴマ和えである

7の帰結が美味しいかどうかは別として。

 

Wikipediaによれば、ブロッコリーは地中海沿岸の原産、花を食用とするキャベツの一種がイタリアで品種改良され現在の姿になったとされるという。食用とするのは蕾の状態の花序と茎であり、収穫せずに栽培を続けると巨大になった花序に多数の黄色やクリーム色の花をつけるともある。

以前、近所の畑で見かけたものは、多数の黄色やクリーム色の花をつける前のものだったということになる。

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近くによれば巨木のようだ。

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しかしこれは花たち、正確には蕾の状態の花序と茎なのだ。

自然の形は面白い。 

ひまわり花

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ラリー・ニーブンのSF「リングワール」に登場する「ひまわり花」(Slaver Sunflower)。細かい設定は忘れてしまったが、光を集約して攻撃してくる生物兵器だったと思う。

向日性のひまわりの明るいイメージと、それらが無言で集団で攻撃してくるイメージとが相反し、かえって生物兵器としての怖さを醸し出していたように記憶している。人工物としての植物。そこには動物を模したロボットとは違う本質的な矛盾のイメージがある。Slaver Sunflowerという言葉も考えて見ると恐ろしい。

下記の動画、樹木を模した風力発電をする植物状のその姿に、私が必ずしもポジティブになれないのは、そんなところに理由がある。


Wind Tree Uses Micro-Turbine Leaves To Generate Electricity

もちろん、もっとデザインが洗練されれば、私のそんな印象は払拭されてしまうのだろうけれども。

そこにあるリソースと選択の結果

旧オランダ国鉄を継承したというオランダ鉄道が、運行するすべての列車の動力源を風力発電で運用することに成功したという。列車を運行する電力を100%風力でまかなうのは世界初なのだそうだ。

 

デンマークも電力消費の3割近くは風力発電で賄うという。デンマークは1970年代のオイルショックを契機に、9割以上を輸入原油に頼っていたエネルギー自給率の改善に取り組み、1997年には自給率は100%に達成、2004年に到達した自給率のピーク165%からは下がってしまったとはいえ、2013年の段階で自給率93%だという。

cf. デンマークのエネルギーシステム

 

オランダの人口約1600万人(面積41,526km2、人口密度397人/km2)、九州の人口約1300万人(面積 36,782km2、人口密度307人/km2)。大雑把にいえば、オランダと九州は単純に人口と面積だけを考えればほぼ同じ規模だということになる。デンマークはオランダや九州に比べると人口は少なく約571万人(面積43,094km2、人口密度126人/km2)。こちらも大雑把にいえば、面積はオランダや九州とほぼ同じ規模で人口が1/3程度ということになる。

ということは、やろうと思えば九州でもオランダ鉄道と同じような試みは可能ではないのか。デンマークの事例もオイルショック時点での状況は日本とデンマークとでそれほどの差はなかったはずだ。日本全体は難しくても少なくとも九州でならば、その一部でも同様の取り組みが可能ではなかったのか。

もちろん、人口と面積だけで比較することが乱暴すぎることはわかっている。様々な前提条件も大きく異なるだろう。ただ、オイルショックは1970年代、それから少なくとも40年は経過したのだ。彼我の差はどこにあったのかと思う。オランダやデンマークも1970年代のオイルショックの頃にどこまでできると思っていたのかもわからないのだし、誰かを非難するつもりはない。ただ純粋に彼我の差の要因を分析的に考えることがあってもよいのではないかと思う。

これもまたあまりに乱暴な話だが、たとえば九州の阿蘇郡小国町岳の湯地区に行けば、地熱による蒸気が溢れている。そしてもちろん九州全体で風力や地熱がどの程度の規模で利用できるのかはきちんとは分からない。しかし、九州ならできるのではないかという何らかの可能性も感じるのだ。オランダやデンマークにはできたのだから。

そんなことを、冒頭のオランダ鉄道のニュースについて思った。

 

熊本県阿蘇郡小国町岳の湯地区

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cf. 地熱乾燥材 | 阿蘇小国杉のくらし | 小国町森林組合

 

 

風景の記憶

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飯能と横瀬の境にある正丸峠から、晴れた日には関東平野が一望できる。遠くには筑波山が見える。ときどき、朝早くに車で出かけた。少し霞む関東平野は美しかった。遠くに巨人兵が眠る姿が見えたような気がした。

4月の終わりに、混む前にと思い、北の丸公園の国立近代美術館に東山魁夷展を見に行った。

私でも知っている『青響』。ブナの深い青の原生林を白い滝がどうどうと音を立てて流れ落ちている。水原秋桜子の"滝落ちて群青世界とどろけり"とはこういう滝をいうのだろうとずっと思っていた。

しかし解説によれば、画家が見た風景の中に滝はなかったという。深いブナの森をみて画家は滝の音が聴こえるような気がしたのだという。だからこの滝は幻の滝。

ブナの樹形はよく見ると角ばって描かれている。ブナに限らずこんな樹形の樹は存在しない。わざとそう描いているのだ。

「山を渡る風を表すには絵巻にするしかないと思った」『秋風行画巻』についてそう本人が説明している。時間と空間を同時に描く。ああ、創意というのはこういうことなのだと思う。 (秋風行画巻1秋風行画巻2秋風行画巻3

『雲ニ題 海の雲』は何度も戻ってみてしまう。雲間から差し込む微かな光、ジェイコブス・ラダーが海をほのかに照らしている。波がしらの繊細さも美しい。『石の窓』も 壁の質感も、最後のコーナーの『山峡飛雪』も素晴らしい。

京都を描いたものの中では、艶やかな『照紅葉』もよいが、心がしんと静かになるような『月篁』が好きだ。

(2008年5月3日, mixi 改)

季節のかざぐるま

こどもの国の職員の宮下健一さんの「季節のかざぐるま」が美しい。

写真は川崎市公園緑地協会主催の「花と緑の交流会」の分科会で、簡単な作り方の実例とともに教えてもらったときのもの。

「風車は風を感じるから走るのが楽しくなります。そして季節が感じられるようにと考えたんです」

美しいかざぐるま。風を感じるのが本当に愉しくなる。それはきっと、子どもも大人も同じだ。羽の紙はカッティングマシンで作るのだそうだ。懐かしさと新しさとの融合が作る美しさと親しみやすさ。その体験も新鮮だった。

 

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