道具について
「道具」ってもののことをときどき考える。
たとえば「眼鏡」。人の視力の衰えを「補完」する道具。「望遠鏡」になると補完よりももうすこし強く、視力という能力を「拡大」する。「望遠鏡」によって天体を注意深く観察していたからこそガリレオは当時とは異なる世界観を持てたのかもしれない。
「車輪」や「てこ」は人の力を「補完」「拡大」する。ピラミッドの建設ということを考えるとこの発明が当時の世界の仕組みと風景を変えたのかもしれない。大袈裟かもしれないが、指図する人とされる人という関係が道具を媒介として生まれたのかもしれない。道具は媒体である。
「自動車」になると移動という能力を「拡大」するだけではなく「道路」という道具を効率的に使うための「作用」までもっている。「自動車」を効率的に走らせるために「高速道路」が建築され、トラックが走り、クロネコヤマトやAmazonによって配送が変わる。「自動車」は「生活の風景」を変え、「隣の車が小さくみえる」というCMは「人々の夢のあり方」を変えた。
移動という能力について限定しても、時速4km(徒歩)、40km(乗馬もしくは自動車)、400km~(飛行機)と、桁が上がるごとに、社会の構造は変わっていく。移動速度の桁が変わるたびに、境界という概念が少しずつ揺らぎ、反動のように人々の不安がいや増していく。
同じことは「印刷」「電話」「テレビ」といったコミュニケーションの手段にも当てはまる。「風景」は目に見える風景だけではなく、心の風景をも含む。
(技術による)量の変化は(社会の)質の変化をもたらす。しかし量の変化による質の変化は気づきにくい。振り返って初めて気づくことも多い。「半導体メモリ」「CPU速度」「ネットワーク速度」も、量が質の変化を生みつつあるタイプの例かもしれない。
道具は形のあるものばかりではない。「貨幣」も「銀行」も発明された道具だ。「論理」もまたある種の道具だ。穿った見方をすれば我々の思考は道具に支配されている。
当然のことだ。言葉もまた道具なのだから。
(2006年12月19日, mixi改)