月日は流れ、わたしは残る、片雲の風に誘われる: 滝田誠一郎 『長靴を履いた開高健』
「私の釣魚大全」「フィッシュ・オン」「オーパ」など、開高健が記した釣りにまつわる紀行と、その紀行に関わった人々への取材を通し、人間・開高健を生き生きと再構成して描き出した優れた評伝。
たとえ釣りにはまったく興味が無くても、この評伝を読み進めるうちに、開高健に魅惑され、「ああ、叶うことなら、世界中を旅するその場に居合わせて、笑い、落胆し、驚く経験をしてみたかった」と思わずにはいられない。
開高健を京都の神学者である杉瀬祐は「作家が釣りをしている」と評したという。「この人は釣り師ではないと思った。釣り作家でもない。作家そのもの。作家が釣りをしているんだと思いましたね」(p.11)と。
小説家の残した「オーパ」のまぼろしの取材メモに、『赤道6時に夜が明け、6時に日が沈む』とだけ記されている部分があったという。(p.155)
そのメモが、実際の原稿ではこうなる。
『このあたりは赤道直下そのものではないけれどほとんど
直下といってよい地帯で、六時に夜が明けて、六時に
陽が沈む。夜明けの雲は沈痛な壮烈をみたして輝き、
夕焼けの雲は燦燦たる壮烈さで炎上する。そそりたつ
積乱雲が陽の激情に浸されると宮殿が燃え上がるのを
見るようである。』
『「オーパ!」(驚きの感嘆詞)とつぶやかざるを得ない』と著者はいう。同感だ。同時にその赤道の雲を自分も見たかったと思う。自分がみたあの空が作家の内面を通してどのように表現されるのか、その奇跡に立ち会いたかったと思えてくる。
「オーパ!」。
第一回の見開きのリード文にはこうあると、著者は作家の言葉を再掲する。
『1万6000キロ、2ヶ月間、取材班はこの国をさまよった。
さまよっては驚き、新しい驚きを求めてさらにさまよい、
驚くことを忘れたこの時代に驚くことの切実さを知らさ
れた。驚くことを忘れた心は、窓のない部屋に似ては
いまいかーーー? この連載は、現代生活が失って
しまった新鮮な"驚き"を求める人のためにある。』
驚きを失ってしまった現代にあって『半ば子供の脳を持った大人衆』である開高健とともに驚きを求めて彷徨う旅に出ようと作家と著者が魅惑する。
作家は"橋の下をたくさんの水が流れた"という表現をしばしば使ったという。下敷きにしたのはギョム・アポリネール 「ミラボー橋」。
ミラボー橋の下を
セーヌ川が流れ
われらの恋が流れる
わたしは思い出す
悩みのあとには
楽しみが来ると
日も暮れよ、鐘も鳴れ
月日は流れ、わたしは残る
人はこうして片雲の風に誘われるだろう。