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okadamktの日記

That's what we call a tactical retreat.

脳化社会は改めて振り返る価値がある: 養老孟司 『バカの壁』

本書は、2003年のベストセラーであり、その強烈なタイトルはその年の流行語大賞にもなった。

そして、タイトルで誤解されてしまう本というものは存在する。

たとえば、ニコラス・カーの「ネット・バカ インターネットがわたしたちの脳にしていること」。本当は詩的ともいえる思索と刺激に満ちた本なのに。

本書については、売れた理由がタイトルによるところも少なからずあったにせよ、著者もその言葉を本書の中で使い、まえがきでも補足して説明しているのだから、タイトルが誤解を呼ぶとはいえない。

まえがきで掲げられている数学を例とした壁の説明は、多くの人が共感できるわかりやすいものだと思う。

「たとえ数学をわかるという人でも、あるところまで進むと、わからなくなる」。

壁とはそんな限界のことだ。この限界の感覚は、おそらく誰もが納得ができるものだ。そして、著者はそれこそが我々が受容すべき事実なのだと指摘する。一方で、脳化した社会とは、その限界の感覚を失ってしまったか、あるいは逆転させてしまっているという。刺激的だ。

ただ、それでも、このタイトルは誤解されたのではないかと思う。赤瀬川原平の「老人力」についての誤用ほどではないにせよ。

それは、著者の縦横無尽さにある。私はその縦横無尽さが嫌いだった。言葉や概念を未定義で提示し、かつ飛躍させていく展開は論理の粗雑さに思えた。極端な単純化は、主観的な主張に見えた。ちょっとしたエッセイなどに見られる極論は、言葉の垂れ流し、知的なサボタージュだと感じていた。

それこそが私の「バカの壁」だったなと今は思う。

本書には確かに、飛躍があり、粗雑さがあり、未定義な言葉の羅列がある。しかし、それでよいのだ。本書の中で提示された様々な断片は、それ自体、緻密な記述では描かれていない。それは荒々しいタッチで描かれた素描であり、その素描に何かの本質が描かれているかが大切なのだ。

本書には、脳内の「リンゴ活動」を敷衍させ脳化していく社会がどのようなものなのかが描かれている。「バカの壁」という限界を作り出しているのは他ならぬ脳自身なのに、誤った敷衍、あべこべに気づけない脳化した社会の課題が描かれていく。

著者にも、そして読者である我々にも壁が存在し、その素描に本当は何が描かれているのかは曖昧で見えづらい。

その曖昧な状態と気持ちを救ってくれるのは、一見世界に対しの怒りに満ちたように感じられる記述の中にさりげなく差し込まれた著者の世界に対する愛しみだ。たとえば著者は、V.E.フランクルの言葉を引用する。「人生には意味がある。その意味とは、他人が人生の意味を考える手伝いをすること」と。

乱暴とも感じられるタイトル、飛躍や粗雑ともいえる記述。その言葉の森の中に、確かになにか豊かな宝物が隠されている。