okadamktの日記

That's what we call a tactical retreat.

風神雷神のように: 曾野綾子 『中年以降』

上手いエッセイは人を魅了する。中年以降の季節とはそんなエッセイに似ている。

『「奥さん、サハラに行くんだって?」と当時他人に言われる度に、夫は、「砂漠に行くと神が見えるんだそうですよ。しかし砂漠に行かないと神が見えないというのは、不自由なことですなあ」と笑っていたのである。』

中年以降ともなれば、心の中に何人ものアリエッティたち(こびと)が住む。懐かしさと苦しさを抱え、ものごとは一概には言えないと感じながら、その曖昧さに耐え、歯切れは当然わるくなる。そして心の中に様々なもやもやと許しと帰還とを抱えている。

若さはかならずしも輝くばかりではなく、『青春にはどこか「ものほしげ」なところがある』とも感じている。

著者の言葉はかならずしもまっすぐではない。『不幸という得難い私有財産を、決して社会にも運命にも、税務署にも返却しない』。そう著者は言い切る。

『人は会った人間の数だけ賢くなる』。わたしもそうありたい。

『徳は広範で、私たちが見ている天空のようなものである。そこにはあらゆる人間の、人間だけが持つ不思議な輝きが光を放っている。光は、人生の黄昏から夜に近い頃になって始めて輝き出して当然だろう。』

中年以降とは、俵屋宗達風神雷神のようなものなのかもしれない。宗達の風神と雷神は、自身は輝かず生身だ。そしてわずかばかりに彼らの周囲が光を放っている。心は自由になり、風神と雷神のごとく、すべてのことが柔らかな笑いで受け止められる。それは多くの人々の共感を呼ぶ中年以降のカタチだ。