okadamktの日記

That's what we call a tactical retreat.

静けさとは無ではない: 森博嗣 『喜嶋先生の静かな世界』

喜嶋先生は静かな世界に生きている。

研究というものに携わったことがあるならば、誰しも一度は、喜嶋先生のように生きたいと願ったはずだ。この本はそんな人のためにある。喜嶋先生は研究者のイデアだ。

静けさとは無ではない。静かであることと豊かであることは矛盾しない。喜嶋先生が静かな世界に生きているのは、社会的なノイズを排し、純粋に研究のことだけを考え、そのS/N比を極限まで高めるため。静けさの中に無限ともいえる豊穣な世界が広がっている。

研究は冒険なのだ。そして本書は、若い頃の「僕」が喜嶋先生と旅した冒険の記憶だ。

小さな"村"に住む主人公である「僕」は、旅の準備を整え、勇者と出会い、勇者とともに冒険の旅を行い、やがて"村"に帰還する。喜嶋先生は冒険の勇者であり、多くの冒険の書と同様、真の勇者は一人静かに生きている。

元々、「僕」は自分の生きている"村"を不安定な世界だと感じている。

要するに、ここから世界が築かれるという根拠に位置する基本法則がないのだ。

ただなんとなく、そっちの方が良いかな、という程度の判断の積み重ねだけで、この世のすべてのルールが出来上がっているように思える。

勇者である喜嶋先生は、学問に対する態度に曖昧さを許さない。彼は真の勇者なのだ。喜嶋先生は、学問についてこう語る。

僕が使った王道は、それとは違う意味だ。まったく反対だね。学問に王道なしの王道はロイヤルロードの意味だ。そうじゃない、えっと覇道というべきかな。僕は王道という言葉が好きだから、悪い意味には絶対に使わない。いいか覚えておくがいい。学問には王道しかない。

 彼らの旅は続く。

"ただ考えて発想する"、"思いつくまで考え続ける"、"発想というのは、それまで関係がなかった事柄の間に新しい関係を見いだすこと"、"発想があるまで、ひたすら考える"、"何か手掛かりはないかと思いを巡らす"。

大切なことは、"どう考えればよいかではなく、何を考えるか”。"問題がどこにあるかをいつも考えている"ことだ。"問題を見つけること、取り組む課題を探すことは、目の前にあることに取り組むよりずっと難しい"のだ。"研究領域とは、二人で考えれば二倍広くなる"

"村"に戻った「僕」は静かに思う、

若い頃には滅多になかったことだ。それが、この頃はときどき空を見上げる

と。

空はいつでもそこにあるから、それだけ少し安心できる

と。

「僕」はいまでも信じているのだ。勇者が冒険の旅を続けていることを。おそらくあなたも信じるだろう。あなたが研究者かどうかに関わらず。少なくとも、私はそう信じている。