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okadamktの日記

That's what we call a tactical retreat.

「個人」から「分人」へ: 平野啓一郎 『私とは何か』



本書は「私とは何か」という問いへのひとつの答えである。

著者は、分けられない首尾一貫した「本当の自分」というモデルは不完全だという。これまでの「個人」(individual)という概念を、大雑把で、硬直的で、実感から乖離しているという。そして、「人とは、分割可能な分人(dividual)」である」と捉えることを提唱する。


「個人」から「分人」へ。言葉としては違和感を禁じ得ないかもしれない。しかし、自らの経験に基づく「本当の自分」というモデルへの違和感と、著者自身の小説の底辺に流れるテーマをベースとして自分と他者との関係を見つめ、愛することや死者との対話の意味を問い直す。

人は他者との関係性によって様々な表情を見せる。「本物の自分」も、ウラの顔や表の顔も存在せず、すべてが自分であると、著者は肯定する。分け得る自分である「分人」の総体を受容し慈しむことを勧める。

「分人」とはそのための思考の道具だ。「分人」という道具を用いることで、人格は、他者との関わりとその反復を通じて形成される一種のパターンとなる。

「分人」とは「個人」に対峙する新たな思想である。「分人としての私」とは、関係から生まれる内的な構造の総体である。他者との関係によってのみ「私」が成立しているという世界観であり、新たな認識の転換を促してくれる。

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刺激的な極論だ。

「私」という人格が、他者との相互作用の反復からのパターンから構成され、その総体が「私」であるとする主張は、「私とは何か」という問いを、根本の部分で揺さぶる。

人とは、なにか中心的なものを持つ存在ではないということだ。人を、中心のない流動的な存在と考えるアプローチだからだ。

本書では、分け得ぬ「個人」よりも、分け得る「分人」の方が、より正しく世界を表現するのではないかという。誰もが当然のものとして考えてきた「個人」という概念に疑義を挟まれる。

確かに、我々は「個人」という概念に縛られすぎている。人は可塑性が高く、曖昧な存在だ。「個人」というモデルが、我々が抱える不安や悩みの遠因を生み、世界を不完全にしか記述しえなくしているともいえる。

「個人」から「分人」への転換は、人の関係を記述する記法を変える。人というものを、他者との関わり、コミュニケーションの総体へと還元する。

そのことによって、コミュニケーションの中にあった様々な違和感が解きほぐされていく。なぜ、人は一方的に話をする人物に違和感を抱くのか。それは相手から強制的に分人を押しつけられることへの拒絶反応なのだ。なぜ、人は亡くなった人と対話を続けるのか。それが自らの一部となった分人との対話だからだ。従来の「個人」という単位では解釈できない、人の気持ちに寄り添った主張だと思う。

「分人」という概念が、「個人」という概念を上書きできるかは未知数だ。しかし、「個人」という概念が人間を分断するものであり、一方の「分人」という概念は人間を個々に分断しないという著者の眼差しは暖かい。この世界は、分断されるものではなく、すべてが動的な関係性の中で変化する状態として記述されるという主張なのだ。

「個人」から「分人」への転換は、人という存在を他者との関わりで記述する思想である。その思想は、自らの感情の肯定的な部分に光を与える。他者とのコミュニケーションの成立や不成立を肯定的に捉える機会を与えてくれる。そして、他者の存在の不可欠性を経済的な意味のみではなく必然としてくれる。

「分人」すなわち「分けえる私」という考え方は、身体的な直観とは乖離している。しかし、意味的には十分な納得感を持っている。本書で提示された「分人」という概念は、反芻するように味わって検証されるべき、興味深い仮説なのだ。