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okadamktの日記

That's what we call a tactical retreat.

主観の麻痺について: 遠藤周作 『海と毒薬』



戦争末期におきた一つの事件を題材にした中編。物語は、複数の人物の一人称による語りと三人称による記述とで構成される。視点の変化によって事件の「風景」が際立つ形式といえる。

冒頭は遠景から始まる。

八月、ひどく暑いさかりに、この西松原住宅に引越した。住宅地といっても土地会社が勝手にきめただけで、新宿から電車で一時間もかかるところだから家かずはまだ少ない。駅の前を国道が一本、まっすぐに伸びている。陽がカッと路に照りつけている。どこから来るのか知らないが砂利をつんだトラックがよく通る。トラックの上には手拭を首に巻いた若い人夫が流行歌を歌っている。

そして「私」によって近景が描かれる。

私が引越した月はひどく雨の降らない日が続いた。ソバ屋とガソリン・スタンドをつなぐ畠はすっかりひび割れて、水気を失った玉葱の根の間でキリギリスが乾いた苦しそうな声で喘いでいた。

景色は「音」へとつながる。

夏の西陽が風呂屋の窓硝子に反射して、近所の百姓たちの家族が入浴に来ているのだろうか、湯を流す音、桶をおく音がかすかに聞こえてきた。それはひどく幸せな音のように私には思われた。

しかし、その音は続かない。また、その音は人が人であることの実感にもつながっていかない。

時間が早いせいか湯船のフチに狐のような顔をした男が両手をもたらせて顎をその上にのせていた。こちらをしばらく見つめていたが、声をかけてきた。

そして、それは、暗い闇の物語へと続いていく。

頭が痺れるような気持ちがしたので屋上にのぼった。眼下にはF市の街が灰色の大きな獣のように蹲まっている。その街のむこうに海が見えた。海の色は非常に碧く、遠く、眼にしみるようだった。


本書で描かれるスフィンクスの問い。私たちはそれに答えられるのだろうか。それを問うてくる作品といえる。

朝は四本足、昼は二本足、夜は三本足のものは何か・・・・それは人間です。


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昭和33年に発表された作品。

ある年代よりも下の世代のものにとっては、軽い随筆に長けた「狐狸庵先生」だったり、インスタント珈琲のテレビコマーシャルの中の「違いのわかる男」だったりと、洒脱な印象に親しみがある著者の、純文学作家としての作品である。「狐狸庵先生」が、著者が自らのために創造したキャラクターだとすれば、本書は、純文学者としての著者自身の思いを強く投影しているものといえよう。

扱われている題材は、太平洋戦争中に九州大学付属病院で実際に起きた捕虜を用いた臨床人体実験というセンセーショナルな事件である。そのため、事件自体に眼がいきがちになるが、この作品自体は、非常に創作性が高い作品として読むべきだろう。

冒頭に登場する「私」と、上田と戸田は一人称で語り、もっとも重要な主人公の一人ともいえる勝呂については三人称で語られるなど、作品としての技巧性も高い。

作品が書かれた昭和33年は、戦争が終わって13年後であり、著者を含め、人々は「あれはなんだったのだろう」という思いをいまだ引きずっていたことだろう。13年という年月は、強烈な思いを持つものにとって、つい昨日のことだ。2015年からみれば、神戸の震災は20年前、日航機の御巣鷹山墜落は30年前のことなのだ。いずれもつい昨日のことのようだ。昭和33年といえば、東京オリンピックの開催に向け、街は賑わいに向けて大きく動き出していた時代だ。

著者は、スフィンクスの問いを作品の冒頭近くで投げかけ、中盤では親鸞聖人の和讃を投げかける。「五十六億七千万 弥勒菩薩はとしを経ん まことの信心うる人は このたび燈をひらくべし」

三木清はその著書「親鸞」(*1)の中でこう書いている。

自己を時代において自覚するということは、自己の罪を時代の責任に転嫁することによって自己の罪を弁解することではない。時代はまさに末法である。このことはまた時代の悪に対する弁解ではない。時代を末法として把握することは、歴史的現象を教法の根拠から理解することであり、そしてこのことは時代の悪を超越的な根拠から理解することであり、そしてこのことは時代の悪をいよいよ深く自覚することである。かくてまた自己を時代において自覚することは、自己の罪を末法の教説から、したがってまたその超越的根拠から理解することであり、かくして自己の罪をいよいよ深く自覚することである。いかにしても罪の離れ難いことを考えれば考えるほど、その罪が決してかりそめのものでなく、何か超越的な根拠を有することを思わずにはいられない。この超越的根拠を示すものが末法の思想である。

本書の中で描かれる悪は人の悪だけであろうか。

科学的価値の根本である「客観性」は相対化と客体化を生む。それは科学のひとつの原罪でもある。人すらもモノとして扱うことに麻痺してしまう感覚。時代の中で「主観」を麻痺させ、人としての自然なあり方を摩滅させていく。登場人物の一人である勝呂から、「私にとって世界は・・・」という問いの答えを永遠に奪い取ってしまう。本書は非常に強いメッセージを持った作品といえる。

(*1) http://www.aozora.gr.jp/cards/000218/files/46946_28584.html