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okadamktの日記

That's what we call a tactical retreat.

気持ちがゆっくりと明るくなっていく: 谷川俊太郎 『谷川俊太郎質問箱』



ほぼ日刊イトイ新聞上の連載「谷川俊太郎質問箱」から派生した本書は、寄せられた質問に著者が答えていく形式で書かれている。質問は全部で64個。ほぼ日で寄せられた読者からの質問に、本書では著者の友人からの質問も加えられている。

回答は、「おもわずはっとしてしまうもの」、「自分だったらどう答えるだろうと悩みそうなもの」と様々だ。

ストレートが来るかと思えば山なりのカーブが、ここは内角を攻めてくるかと思う気合を入れると一塁へのけん制球で外される。

回答の語り口も、愛情に溢れた眼差しに溢れていたり、ちょっと皮肉めいた口調だったり、緩急自在だ。その語り口をきいているだけで、なんだかお茶でも飲みながらのんびりと、「こういうときはどう答えようね」と笑いながら話しているような気分になる。本書はそんな本だと思う。

巻末には「あとがきばなし」として糸井重里氏と著者との対談、「詩人から届いた答。」が掲載されている。対局の後の感想戦のようなその対談は、「問いに答えるとはどういうことか」に関して、詩人である著者から読者への問いのようにも思える。

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本書の冒頭には、著者の第一詩集「二十億光年の孤独」から「ネロ --- 愛された小さな犬に」という詩の最後の一節が引用されている。

僕はやっぱり歩いてゆくだろう
新しい夏をむかえ 秋をむかえ 冬をむかえ
春をむかえ さらに新しい夏を期待して
すべての新しいことを知るために
そして
すべての僕の質問に自ら答えるために

この冒頭の詩の一節からも明らかなように、寄せられた質問に対して「自分であればどう答えるか」という視点を著者は崩さない。それは著者の原点なのだろう。そのことが本書のそこかしこから伺える。

質問に対して、ちょっとしたユーモアを交え、少し斜に構えたり、真正面から受け止めたりしながら、著者は答えていく。著者の「自らとして答える」という点は揺るがない。それは「ことば」に対して常に潔くありたいという著者の姿勢なのだろう。

詩人ではない我々はといえば、「ことば」に対しても、「問い」に対しても、そこまでは潔くはない。というかそもそも普段、考えない。質問をされればなんとなく正しそうな答えを探す。よいとかよくないということではなく、科学や社会や政治にその答えを求めたりもする。誰かの答えに頼ってしまう。

だから、見つけた問いの答えが、自分にとって本物かどうか、普通はよくわからない。表面的なものもしれない。けれど、それをそんなには気にしたりしない。

著者は何度か、「科学的な答えはあると思うが・・・最後の究極の答えは科学には出せない」と答えている。答えは自分で答える方がよい。自分で見つけた方がいい。そうでなければそれは自分にとって本物ではない。本書の答えはそう読者に問いかけているようにも思える。

本書は、質問に答えていくという形式をとりながら、本当の意味では答えではなく、著者が自身に問うた質問への答えでしかない。問われた質問に答えるといいつつ、答えが答えではないという矛盾。それこそが本書の構造的なトリックであり、本書の主題なのかもしれない。

「谷川さん」という質問箱に質問を投函すると、その質問は不思議な世界を通過したのち、自分に届く。「あれ、あれ? 谷川さんだったらどう答えるだろう。」とも思うが、それは「谷川さんだったら」という自分なのだ。

その意味で、本書は詩的なマジックボックスだ。「どんな質問でも受け付けます」、「いくらでも受け付けます」、「答えもでます」、「でも、答えるのはあなた自身です」、「時間はいくらかかってもいいからね」。

だって人とはそういうものだもの。ずっとそうしてきたわけだし。

僕はやっぱり歩いてゆくだろう
新しい夏をむかえ 秋をむかえ 冬をむかえ
春をむかえ さらに新しい夏を期待して

前向きで気持ちがゆっくりと明るくなっていく。