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okadamktの日記

That's what we call a tactical retreat.

孤高であること

1991年1月17日のC-SPANにショックを受けた。C-SPANではアメリカ合衆国議会の様子を終日流している。C-SPANはそんな政治を専門とするケーブルチャンネルだ。そして1991年1月17日はイラク空爆が始まった日だ。議場ではサンダースがひとりイラク空爆の非を訴えている。

議場にはほとんど誰もいない。異様ともいえる壮絶な光景だ。


空席の国会演説 バーニー・サンダース 1991年 (日本語字幕)

 

歴史の是非を言いたいのではない。サンダースの演説を賛美したいのでもない。ただ、私はそのとき何を考えていたのかを振り返りたいのだ。1990年から2000年にかけての時代の変曲点を自分がどう感じていたのかを。

 イラクがクェートに侵攻した直後の1990年8月。初めての海外出張をしたときだ。イランのクェート侵攻が心配ではなかったかというと嘘になる。それでもやはり少し気分は高揚していた。海外旅行も初めてだったのだから。

成田を発ってフランクフルト経由でロンドンに向かった。イラククウェート侵攻を受けフランクフルト空港は少し緊張した様子だった。兵士が空港内のそこここにいて、空港からは複数軍用機も見えた。

あのとき、サンダースのようには考えていなかった自分をはっきりと覚えている。米国はイラククウェート侵攻を非難していた。私もそれに違和感は感じなかった。冷戦が終わりつつあるときに「なぜ?」とぼんやりと感じていただけだった。

ロンドンの次に東ベルリンへ向かった。パスポートには東ドイツの査証(ビザ)が挟んであった。その1年前にベルリンの壁が壊れ、東西ドイツの通貨統合はなされていたもののまだ査証(ビザ)が必要だと言われたからだ。しかしだれもそんなものを気にする人はいなかった。すでに東西ドイツの通貨統合は行われており西側の空港からタクシーで東ベルリンに入ることができた。10月の東西ドイツ統合の直前ではあったが東ドイツ市長はまだ在任しており、東ベルリン市長主催の晩餐会が開催された。

冷戦時代に子ども時代を送ったものとして、ぼんやりと核の脅威を子供心に感じながらいたものとして、東西ドイツの統合は平和への大きな一歩の象徴のように感じられた。だからこそ、イランのクウェート侵攻についても「なぜまた?」という素朴な感想しか持てなかった。私はそれをはっきりと覚えている。振り返ってみるとそれはあまりにものを知らないナイーブな感覚だった。

そんな時代にサンダースはひとり訴えている。議場にはまったくと言ってよいほど誰もいない。私にはできるだろうか。誰も耳を貸さない孤高の中で発言することが。誰もが大きな流れと感じているものの中に潜む小さな兆しを指摘することが。1991年のあの夏以来、それは私の中の刺さった小さな骨のような問いなのだ。