okadamktの日記

That's what we call a tactical retreat.

希望の意味のヒント: 重松清 『きみの友だち』

「みんな言ってるよ」

そんなセリフはこの小説には出てこない。しかし「みんな」ということばの痛みや怖れを「きみ」である「私」があのときどう感じたのか、この小説はまざまざと思い出させてくれる。だからもしかすると「きみ」はこの小説の前半で読むのが辛くなり、この本を投げ出したくなるかもしれない。

けれどくじけずに読んでほしい。松葉杖がないと歩けない恵美ちゃんと病気がちな由香ちゃんがどんな友だちだったのかを知ってほしい。

恵美ちゃんは言う。「だから・・・『みんな』に付き合ってる暇なんてない」 空を見上げれば青い空に真っ白な小さな雲が浮かんでいる。それは由香ちゃんが好きな『もこもこ雲』だ。

生きるのに不器用であることが辛くないなんてことはない。でも探してみてほしい。きっと『もこもこ』とした雲が青い空にみつかるはずだ。それは由香ちゃんと恵美ちゃんの雲だ。この小説を読み終えた私たちも『もこもこ雲』を探している。心に痛みをもちながら。

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「きみの友だち」。よい題の小説だと思う。自分の中の自分に「友だちってなんだと思う?」と静かに問いかけてみたくなる。

子どもの頃に「友だちって何だろう?」と考えたことは誰にでもあるはずだ。「クラスが同じだったら友だち?」、「家に遊びに行ったら友だち?」。 小説を読み終えて、自分にはまだその結論が出せていないことがわかる。

この小説はアンソロジーのような形式で書かれている。時間や登場人物が交錯し、最初は少し読みにくいと感じるかもしれない。登場人物たちの誰かに自らが重なり、心がざわついてしまうかもしれない。「あの頃の思い出はそんなに素敵ではない」と思うかもしれない。しかし、読み終わると気づく。いまの自分がそこにいる。

もし「私は私。そうだよね?」と尋ねたら、「きみ」はどんな風に答えるだろう。そっけなく、ちょっと怒った声で答えるのだろうか。「『みんな』じゃないってことだけじゃ、十分じゃないよ」と。それとも黙って空を見上げるだろうか。

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1969年に書かれた児童小説に大石真の「教室二〇五号」がある。そこで描かれているのは60年代の子どもたちだ。現代の子どもたちとは単純には比較できない。両者はどこか本質的に違う。

教室二五号の少年たちは、物理的な秘密の部屋を共有していた。現代の子たちにあるのは心理的な秘密の部屋だけなのかもしれない。60年代の子どもたちに辛い気持ちがないはずがない。いじめや嫌がらせもあったし、靴を隠して知らないふりをする卑怯者もいた。心の秘密の部屋に逃げ込むしかないこともあった。しかし、個が侵蝕される度合いはどうだろうか。

生態系という言葉が浮かぶ。60年代と現代とでは生態系が異なるのかもしれない。その違いが現代においては個への著しい侵蝕と個と集団の区別の曖昧さを生む。過剰反応のような自己防衛的な攻撃、すべてを0か100かに区分けするデジタル的な態度、抑圧的な同調。

それらはあいまって、他の植物の生長を抑制するセイタカアワダチソウなどが持つアレロパシーのように作用する。他感作用と和訳されるアレロパシーはギリシア語の「互いに」と「感受」からなる合成語だ。子どもの世界が互いに発するアレロパシーによって支配されている。そこにあるのは生態系としての「逃れらえない世界」だ。

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最終的に「きみの友だち」に答えはない。ヒントだけ。それは生態系として逃れられない世界に生きる小さな者たちへ、著者がさしのべる救いとやさしさのまなざしだ。