okadamktの日記

That's what we call a tactical retreat.

フローとしての日記

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子どもの頃、日記を書いていたことがある。大学の頃もときどき思い出したように書いていた。mixiでの日記は2005年11月から2013年12月まで約8年ほど書いた。

mixiでの日記を始める前は、写真日記を付けていた。気が向いたときに撮った写真を家のプリンターで小さく印刷して、それをノートに貼り絵日記のようにしていた。子どもが小さかった頃だ。時々、ドロシーがその日記にときどきなにかよくわからない感想を書き込んでいた。

日記といっても毎日は書かない。それでいいのだということを高校生の頃に思いついた。その日から日記は自分に対する義務ではなくなった。

日記には楽しいことだけを書いてもよいのだということもその頃に思いついた。ブルーノ・ワルターの「主題と変奏」(*1)という回想録を読んでいたときのことだ。ワルターは回想録の中で、「若い頃は日記に毎日の反省を書いていたが、それは誰にとっても、特に自分にとって、 まったく益がないことに気づいた」という主旨のことを書いていた。私は「なるほど」と思い、以来、日記に反省のようなものを書くことを止めた。

気楽なことしか書かなくなって解ったことは、それでまったく問題がないということだ。当たり前のことだが大切だ。それまでの私は子どもながらに『日記』に対して先入観を持ち、『日記』を難しく考えていたのだと思う。自分で自分に縛られていたということになる。

最近思うことは、日記とはフローだなということだ。

日記は保管されるべき記録(ストック)ではなく、毎日の生活の断面をそっと切り取っただけのもの。方丈記を持ち出すまでもなく、我々の生活は流れている。断面のようで断面ではない。それが私の考える日記がフローだということだ。

実際、mixiの日記を改めて眺めてみても、その頃の生活のフローとしての自分がそこにはいる、記録としての意味はほとんどない。そもそも改めて読み直してみてもそれを書いた理由が思い出せない。安部公房の第四間氷期の感想? 読んだことすら忘れてしまっている。

それで別に構わない。改めて読めば、「そんなこともあったかな」という程度のものだ。ただ、日記を書くことが好きかと聞かれれば好きだとは言える。それだけのことだ。

(*1)ブルーノ・ワルターの「主題と変奏」