物語について
ル=グウィン「ギフト」(Gifts )の一節。
その物語はぼくの中に生きている。それがぼくの知る限り、死を出し抜く一番いい方法だ。死は自分が物語を終わらせることができると思っている。物語が自分―つまり死―の中で終わっても、物語が死とともに終わるのではないことを理解できない。(p18)
痺れる。
人はもしかすると「そんな考えはロマンチックではあるけれど、子供じみた考え」と言うかもしれない。そしてそれはある意味正しい。しかし、そんな幻想を持てることも、人というもののあり方や強さ、そして弱さのあらわれかもしれない。
いまやロマンチックであることすら、マニュアル化され、そして過剰なインフレ状態だ。
もっと静かにロマンチックでありたい。吉野弘の詩のように。
生命は
自分自身だけでは完結できないように
つくられているらしい
花も
めしべとおしべが揃っているだけでは
不十分で
虫や風が訪れて
めしべとおしべを仲立ちする
生命は
その中に欠如を抱き
それを他者から満たしてもらうのだ
世界は多分、他者の総和
しかし
互いに欠如を満たすなどとは
知りもせず
知らされもせず
ばらまかれている者同士
無関心でいられる間柄
ときに
うとましく思うことさえも許されている間柄
そのように
世界がゆるやかに構成されているのは
なぜ?花がさいている
すぐ近くまで
虻の姿をした他者が
光をまとって飛んできている私も あるとき
誰かのための虻だったろうあなたも あるとき
私のための風だったかもしれない(吉野弘、「現代詩入門」、生命(pp.38-40)
そう「世界は多分、他者の総和」、そして私もあなたも「誰かのための虻や風」かもしれない。