okadamktの日記

That's what we call a tactical retreat.

ちはやぶる

「恋す蝶」という蝶はどんな蝶なのか、「ゆらの塔」というふしぎな塔はどこにあるのか

子どもの頃に感じた百人一首の思い出を歌人佐々木幸綱はそんな風に語っている(*1)。落語の「千早振る」(*2)に思わず共感してしまうのは、誰もが同じような気持ちになったからだろう。

もちろん、百人一首に歌われた内容の背景や意味をもう少しきちんとわかりたいと思う。アニメや映画にもなった「ちはやふる」の登場人物の一人、大江奏のいう通りだ。それに、その方がたぶん人生は豊かになる。私にとって詩人吉原幸子百人一首の現代語訳はその入り口を開いてくれる。

たとえば「ちはやぶる」。歌の詞書「二条の后の春宮の御息所と申しける時に、御屏風に竜田川に紅葉流れたるかたを描けりけるを題にて詠める」を受け、まるで幻想冒険小説の一場面だ。

ちはやぶる神代もきかず龍田川
からくれなゐに水くくるとは

神代のむかしには
さまざまなふしぎがあったとか
島が動いたり
八いろの雲がたなびいたり
それでも こんな話は絶えて聞きませぬ
まして人の世
このように珍しい景色があろうとは-


燃えるように色づいたもみじが
竜田川の川面にびっしりと浮かび
まるで 韓国(からくに)の紅で
澄んだ水を絞り染めにでもしたように
血のように 炎のように
重なり合って流れてゆく

(美しい屏風の主よ
 過ぎた日々 あなたに燃やした
 わたしの 胸の火のように)

好きな歌は年齢とともに変わる。寂しいという感情や人以外の者を友としたいという思いも募る。

世の中よ道こそなけれ思ひ入る
山の奥にも鹿ぞ鳴くなる

そうか
逃れる道は ありはしないのか


憂き世をいとう心にせめられ
思い悩み 思いつめて
この山奥へ 分け入ってきたが
ここにさえ 悟りすました静けさはなく
おお あんなにも もの悲しげに
腸をしぼるように
雌を恋うてか 鳴いている鹿の声
まるで おのが悲鳴をきくようだ


煩悩は 地の果てまでも迫ってくる
山を下りて
現し世を引き受けるしかないのだ・・・ 

もろともにあはれと思へ山桜
花よりほかに知る人もなし

吉野山 大峰の奥深く
思いもかけず咲いていた一本(ひともと)の山桜よ

私が おまえをなつかしむように
おまえも わたしをなつかしんでおくれ

里では もう花も散っているのに
春におくれて ひっそりと咲く
わたしたちは 似た者とうしだ

世を忘れ 世に忘れられて
きびしい修行の道にはげむわたしの
それでも 枝いっぱいに生(いのち)を生きる
この心を知ってくれるものは
おまえしかいないのだから 桜よ 

 ブナの林でも同じような気持ちになる。

(*1) 佐々木幸綱編著「百人一首をおぼえよう 口訳詩で味わう和歌の世界」まえがき
(*2) 落語「千早振る」 wikipedia