okadamktの日記

That's what we call a tactical retreat.

静かな雪の夜のように

ル=グウィン「ヴォイス」の一節が頭を離れない。長らくオルド人の武力的な圧政下で虐げられてきた都市アンサルが自由への一歩を踏み出しつつある瞬間の一節だ。

 応接室にもどると、議会や選挙や法による統治と言った話題よりも、襲撃だのオルド人虐殺だのというほうに議論が傾いていた。もっとも、そうあけっぴろげに話をしていたわけではなく、兵力の終結、市内の諸勢力の団結、武器の備蓄、最後通牒といった言葉が使われていた。
 その後、今日まで、わたしはあのとき聞いたことと彼らの用いた言葉づかいについて何度も考えた。男は女と比べると、人間を生身の肉体をもつ命としてではなく、数として――頭の中の戦場で思いのままに動かす、頭の中のおもちゃとして――とらえがちなのではないだろうか。この非肉体化によって、男たちは快楽を感じ、興奮し、行動したいから行動するということをためらわなくなる。人間を数として、ゲームの駒のように操縦することをなんとも思わなくなる。その場合、愛国心とか名誉とか自由とかいうのは、神に対して、そのゲームの中で苦しみ、殺し、死ぬ人々に対して言い訳をするために、その快感に与える美名に過ぎない。こうして、そういう言葉――愛、名誉、自由――は、本当の意味を失い、価値が下落する。すると人々はそれらの言葉を無意味だと見下すようになり、詩人たちは、それらの言葉に真実の意味を取り返してやるため、奮闘しなくてはならない。(p.284)

ル=グウィンらしい痛烈な洞察に満ちた文章だと思う。

そうなのだ。ほんの少し油断するだけで、私たちは、さまざまなことを概念化と称し、駒のように操作しはじめる。そのこと自体の意味を自らに問うことをおろそかにしてしまう。スピードや効率や効果といった操作のための指標にだけ注意を向けてしまう。賢いということの意味を履き違えはじめてしまう。喜びをもって。

「読むことは、かつてわたしたちみんなが共有していた能力だった」道の長が言った。長の声はもはや穏やかではなかった。「もしかすると今こそ、わたしたちみんがが、それを学びなおすときなのかもしれない。いずれにせよ、与えられた答えが理解できるまでは、新しい問いを発してもむだだ」
「理解できない答えになんの益がありましょう?」
「噴き水の水は、おまえが満足するほど澄んではいないと言うのか?」
わたしは道の長がこれほど怒っているのを見たことがなかった。白刃のような冷たい怒りだった。(p.286)

日々の生活の中で、わたしたちが何を得、何を失ってしまったのか。ノスタルジーに浸るのではなく、反発をエネルギーにするのでもなく、テレビを消し、音を消し、振り返るときなのだと思う。