okadamktの日記

That's what we call a tactical retreat.

わすれな草

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認知症に関する私的ドキュメンタリー映画「わすれな草」(*1)の日本公開にあわせ、「認知症にやさしい生活圏とは」というテーマでパネル・ディスカッション(*2)が東京ドイツ文化センターで開催された。

モデレータは慶應大学大学院健康マネジメント研究科の堀田聡子さん、パネリストはDAYS BLG!の町田克信さん、杉本欣哉さん、前田隆行さん、筑波大学ダイバーシティ・アクセシビリティ・キャリアセンターの河野禎之さん、そして映画にも出演されていた監督のお父さんのマルテ・ジーヴェキングさん。
映画は渋谷のユーロスペースで前日に公開されたばかり。会場の参加者も「わすれな草」をすでに観た人の方が少ない。東京ドイツ文化センター主催の会で、「認知症にやさしい生活圏とは」というハードルの高い問いがかみ合うのだろうかと心配になった。しかしそれは杞憂だった。非常によい会だったと思う。


 「生活圏」とは静的なシステムではない。それがこの日の結論ではなかったかと私は思う。

認知症であること、認知症の家族とともに生きること。それは認知症という出来事に接することによって生まれる間主観的な発見を伴う新たな動的な旅だ。家族という立場のマルテさんはそれを「周囲の治療」というやや生硬な表現で語った。河野さんは河野さんの祖母との関わりを、杉本さんの奥様は杉本さんと絵画を一緒に見に行かれたときのことを話された。いずれも同じ源を持つ水脈からの言葉だったように思う。

家族の中であってさえ、お互いを再認識する新たな発見の機会が訪れる。それが相互に受容され、お互いの関係性が再構築されていく。一連の変化のプロセスの重要性が「生活圏」という言葉に誘発され、対話として紡がれていった。

認知症については二重のスティグマがあると言われている。社会の中のスティグマと、社会によって副次的に生み出されるた自らの中のスティグマだ。しかしそれとは別に「自らの中にある人と人との関わり方に関する思い込み」にも解くべきポイントがあるのかもしれない。

マルテさんが語っていたこと、映画の中で息子さんであるダーヴィッドさんが表現されていたことは、妻であり母であるグレーテルさんとの関係性への思いが、グレーテルさんを起点としてまるでブーメランのように自らに還ってくるターニング・ポイントの体験ではなかったか。そんなターニング・ポイントの体験により、マルテさんやダーヴィッドさんが自らの人生への認識を変化させていく。それは「よい先輩との出会い」にも似ている。

人生は、数学的とも物理的ともいえる非線形な様相の変化だ。マルテさんの数学者としてのバックグラウンドから語られる言葉はそんな印象を私に与える。

知識から認識へ、認識から意識へ、意識から行動の変容へ。マルテさんは前日の舞台挨拶で「わすれな草という映画はその全体をみてほしい」と語った。この映画は確かに、一連の発見のプロセスを記述している。

(*1)
(*2)