okadamktの日記

That's what we call a tactical retreat.

第2中世への予感:熊代亨『融解するオタク・サブカル・ヤンキー ファスト風土適応論』

本書のタイトルは「融解するオタク・サブカル・ヤンキー」だが、本書の主題はそこではない。副題の「ファスト風土適応論」こそが本書のメインディッシュだ。

もちろん、かつて「オタク」「サブカル」「ヤンキー」と呼称された文化とその後の変遷、そしてそれを支えた若者の傾向が、現代(2014年)の視座からみた位置づけや分析とともに語られている。章立てでいうと「第二章」「第三章」がそれにあたる。ページ数でいえば47ページから118ページ、全体で200ページ弱の本書の4割弱に相当する。

第2章 オタクもサブカルもヤンキーもいなくなった
第3章 オタク/サブカルの年の取り方 

一方、メインディッシュといえる「ファスト風土適応論」には、「はじめに」「第一章」「第四章」「第五章」と本書の約6割があてられている。文脈の違いは目次からもうかがえる。

はじめに 「ヤンキー的な。オタク的な。サブカル的な。」
       20世紀的な幸福モデルが失効した世界で
第1章 国道沿いの小さな幸せ
第4章 国道沿いに咲くリア充の花 
第5章 追いかけてきた現実(リアル)

「はじめに」の項目でも明かなように、「オタク」「サブカル」「ヤンキー」は括弧書きの記号であり、本書が述べている主題は異なる文化的な水脈であり、本書の主題である。そしてそれは、2000年代までに日本全国に拡大した、ファスト風土文化で一律的な舗装をされたロードサイド文化圏で生きる若者の様相である。

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著者が注目するのは、奥行きやディテールを趣味生活に求めないファスト風土文化と、時間的にも金銭的にも余裕がなく、なけなしのリソースをズッ友な人間関係の再生産に費やす若者文化との関係である。その二つの様相は、手許にあるモノやコンテンツをきちんと楽しみ、それなりに満足できることを大切にし、特別な私を求めない姿勢、ファスト風土文化をごく自然に受容する文化的価値感を醸成する。

その価値感は、「オタク」「サブカル」「ヤンキー」という記号的の中にアイデンティティを見いだそうとした旧来の若者とは異なる。「特別な私」を購買する必要を感じず、ファスト風土文化の中で充足して生きる若者観は、著者オリジナルの現代社会論だ。細かな差違を必要とせず、与えられた記号の享受で十分に新鮮な満足を得られる人々の存在は発見的だ。農業的価値感とも宗教的価値感とも異なる源泉の第二中世的な価値感を予感させる。二十世紀価値感とはまったく異なる様相といえる。

著者の主張は従来の若者文化論とはかなり立ち位置が異なる。個性・主張・ユニークさといった価値のデフレ現象を記述している。「同じものが好きでいいじゃない。」、「特別である必要なんてないよ。」、「それってなんのマウンティングですか?」、「”ゆとり世代”? ”さとり世代”? オレら”おわり”世代ですから。それでいけない理由もないし。」、そんな呟きが向こう側に見え隠れする世界の記述だ。

その上で著者は「ファスト風土文化は続くのか?」と問う。ファスト風土文化は、コンビニやファストフード郊外大型モールという文化と嗜好の工業的流通を前提とする。過疎化や採算性が伸びきってしまったこれからの時代、その豊かさも担保されない。

進出から撤退、発展から衰退へのフェーズ・シフトはすでに始まっている。採算という経済合理主義は、ファスト風土文化の基盤を揺るがせる。ファスト風土文化を支えてきた店舗は消え、人々は物質的にも文化的にも空白に直面する。それにどう対処すればよいのか。著者が提示する答えのない問いである。

問いは答えを求め、空白は埋めるものを求める。何がそれを埋めるのか、まだはっきりとはみえない。融解してしまった「オタク」「サブカル」「ヤンキー」ではないことは確かだ。だからこそ、著者は本書のあとがきで「"精神の受け身をとるための方法論"のニーズは、これからもっと高まっていく」と指摘しているのだろう。