okadamktの日記

That's what we call a tactical retreat.

valu:信頼経済という仮説

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コミュニケーションの研究者として、自分だけだとvaluのシステムの仕様が見えづらいし意見交換もできないので困っていたら、元同僚のK君が連絡をくれる。

彼も物事を分析的に考えながら"本質"はなんなのだろうと考えるタイプだ。彼はvaluについて「個人の価値を上場することの意味、このサービスでの言い方で言えば、自分が達成したいこと、応援してもらいたいこと、って何なんだろうなーと自省しました」という。同じだ。

valuの意味については、ここ数週間、結構考えたつもりだが結論がでない。valuに対して「評価経済」という言葉を使う人がいるがそれも少し違う気がした。

K君は「このシステムが個人の価値を正確に表せていない」点が気になるという。確かに株式市場のアナロジーでいえば、企業価値を提供される主観的な情報やfacebook/twitter/instagramなどのSNSなどから算出する前提基盤の弱さが気になる。それが今のところバブル(虚業的価値)にもつながっているという彼の指摘もその通りだと思う

一方で、そもそも企業や人の価値を正確に評価できるという理想状態を仮定すること自体がナイーブな議論だとも言える。デューディリジェンスを機能させられるという仮説自体が弱い。評価の対象となるものの実態は、ここでは曖昧な「印象」の話でしかない。

強いていえば、現在のバブルな状況が終端した後もシステムが生き残れば、それは評価経済と言うよりは信頼経済なのかもしれない。

「K君なら1000円を渡しておいてもきっとなにか有効に使ってくれるだろう」という信頼。しかも「知らない誰かへの信頼より、K君の方がよいとなれば売って乗り換えられる揮発性の信頼。それが今のところの私の結論かもしれない。

そんな風に話したらK君から、「信頼って価値として評価したり売買したりすることができるんですかね。AさんよりBさんの方がいいやって乗り換えられるようなものですか?」という問いが戻ってきた。
正しい指摘だと思う。保険会社やクレジット会社が測定している外形的ではないものに「信頼」という言葉を使った瞬間、評価すべきものは相手側だけではなくこちら側のさまざまな状況が含まれることになる。客観と主観を割り切って考えられなくなる。

K君自身はvaluについてもう少しウォッチを続け、売る側の「本質的価値の提供」とはなにかを考えたいという。「本質的」というのは結論が出にくいNGワードだとは思うが、K君のそういうまじめさを信頼している。もちろんそれは私の主観だ。

https://valu.is/okadamkt