okadamktの日記

That's what we call a tactical retreat.

わかるということを真摯に問う:熊本徹夫、『精神科医になる-患者を"わかる"ということ』

"不思議"なタイトルの本だ。まえがきの一部にこうある。

哲学者の中村雄二郎はその著書『臨床の知とは何か』(岩波新書1992)の中で、近代科学の三つの原理を<普遍性>と<論理性>と<客観性>であるとし、それらが無視し排除した<現実>の側面を捉えなおす重要な原理として、以下のものを提唱した。それは、<コスモロジー(固有世界)>と<シンボリズム(事物の多義性)>と<パフォーマンス(身体性をそなえた行為)>の三つである。これらをあわせて体現しているのが、中村がいうところの<臨床の知>である。<臨床の知>の三要素に言及するなら、<経験>ということが重要になり、その<経験>の仕組みと働きが問われなければならない、としている。(p.vi) 

本書には、その仕組みと働きを真摯に問おうとする著者の強い姿勢が感じられる。一方で、<普遍性><論理性><客観性>を軸とする思想性の中で生きてきた私には、そこにある「まだ解けていない問題」を前にしての強い困惑もよくわかる。

嘘が実在することからもわかるように、<非ありのまま>も実在する。それに対して<ありのまま>のほうは、実は<非ありのまま>があって初めて成立する事柄である。すなわち<ありのまま>とは、実在する<非ありのまま>からネガティブに規定されるものだといえる。だから、純粋な<ありのまま>というものは、ないのではなかろうか。正真正銘の<ありのまま>、疑問の余地のない<ありのまま>などというものは、もしかすると絵空事にすぎないのかもしれない。(p.81) 

だからこそ、著者のこのようなトートロジー的な表現も『解けていない問題』に対する真摯な取り組みとして好感が持てる。 少なくとも私は本書についてそう思えた。 

ちなみに私自身は、近代から現代にかけての科学は<コスモロジー(固有世界)><シンボリズム(事物の多義性)><パフォーマンス(身体性をそなえた行為)>を無視も排除もしていないと思っている。

(2006年12月4日, mixi 改)