okadamktの日記

That's what we call a tactical retreat.

言葉の変化に対する驚き: 玄侑宗久 『さすらいの仏教語』



日常語の中から、88個の仏教由来の言葉について、元々の意味を踏まえながら書かれたエッセイ集。中央公論の8年にわたる連載として書かれたものなので、文章は肩肘をはらず、読みやすい。そしてユーモアに溢れている。

本書は2つの大きな驚きを与えてくれる。一つは、「自由」、「実際」、「徹底」など、ごく普通に我々が使っているこんな言葉も仏教由来だったのかという驚き。「台無し」のように、なるほど言われてみればと思うものもあれば、擬態語の「ガタピシ」のような意外な言葉もある。もうひとつは、現在使われている意味と、もともとの仏教由来の意味とがこんなにも違ってしまったのかという驚き。普段使いの言葉が、タイトルの「さすらい」という形容詞の通り、時間と空間を旅する中で、ほとんど真逆ともいえる意味の変化をしている。

本書は、われわれの生活の中に通奏低音のように流れる仏教的なものとの関わりと、それらを、ときには大胆に咀嚼してしまう人々の豊かな感性の点描となっている。

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読みやすいエッセイとして、時間のあるときに、あるいは電車の中で、気ままな気持ちで読むことは、この本のとてもよい楽しみ方のひとつだ。感心したり、納得したり、意外な気持ちになったりと、日々の暮らしを豊かにしてくれる。

たとえば「分別」。ゴミ出しの「ぶんべつ」ではないとのことわりから始まる。そして、「いい分別のある大人が・・・」といった現在の我々が思う用法が示される。分別とは当然大人が身につけるべき思慮や判断といった意味で我々は使っている。しかし、本来の分別は、どうしても凡夫がしてしまう間違った判断のことだという。反対語である「無分別」の智慧こそ、悟りの智慧だという。なるほど、面白い。著者は続ける。

「どっちが得か」「どっちが綺麗か」あるいは「どっちが正しいか」なんてことばかり身につけていく。その落ち着かなさを、兼好法師は次のように書く。
世に従へば、心、外の塵に奪はれて惑ひ易く、人に交れば、言葉、よその聞きに随ひて、さながら、心にあらず*。人に戯れ、物に争ひ、一度は恨み、一度は喜ぶ。その事、定まれる事なし。分別みだりに起りて、得失止む時なし*。惑ひの上に酔へり。酔ひの中に夢をなす。走りて急がはしく、ほれて忘れたる事*、人皆かくの如し。(『徒然草』第七十五段)
展開のスピードが読む楽しみを与えてくる。中学生の頃にならった徒然草にそんな一節があったことを知り、分別についてさらに理解が深まったような気持ちになる。

対して、本書のもう一つの楽しみ方は、それぞれのエッセイの構成自体を楽しむという方法である。一つ一つの言葉は見開き2ページ。約1,000文字で書かれている。そこにある統一的な構造を、ちょうど音楽を聴くように楽しむという方法である。

基本的な構造は、古典的な「起」「承」「転」「結」。過去の語義と現在の語義の比較が「起」「承」。そこに生まれるギャップに注目したり、ひねりを利かせた問いを展開したりするのが「転」。そしてこれを受けて雑感を述べるのが「結」。

「起」「承」は語義だから、基本的に人による揺らぎは生まれない。著者と読者の共通基盤を構築する部分である。「承」は、ギャップに関する視点や新たな問いの投げかけであり、著者の独自性によって読者を揺さぶる部分である。「結」は軽くフォロースイングとしての「私はこう思う」に相当する。読者と同じである必要はない。逆に読者の「私はこう思う」の余地を上手く残している。

共通基盤を構築し、その上でひねりを加え、最後に「私」と「あなた」の違いを許容する。エッセイの書き手としての技巧をそこに感じる。