okadamktの日記

That's what we call a tactical retreat.

コンテンツに関わる考察と再定義: 川上量生 『コンテンツの秘密』



コンテンツとは何かを記述するにあたり、適切な「問い」と「定義」を設定することは容易ではない。本書で著者は、ジブリと関わることで深めたコンテンツにまつわる「問い」と「定義」の再構築を行っている。

「問い」は大きく4つから構成される。1) コンテンツとは何か? 2) コンテンツを作るとはどういうことか? 3) コンテンツを差別化するものは何か? 4) コンテンツに関わる天才性とは何か? 理系出身の著者の素朴で率直な問いだ。この問いに著者は理系らしく論理的に考察を積み重ねていく。それはあたかもひとつの論理的で知的な冒険の物語だ。

物語は、問いと定義、仮説と考察とを組み合わせることで編み上げられていく。「コンテンツとメディア・対象・方法との関係」「コンテンツにおける情報量の意味」「現実・客観・主観それぞれの情報量の差の意味」。章が進むにしたがい「問い」と「定義」が深まっていく。著者が積み重ねていく知的な考察こそが本書の本質であり醍醐味といえる。

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コンテンツというややもすれば曖昧な素材を「情報量」という観点から分析した点が、本書のオリジナリティの源泉になっている。コンテンツの定義についてはアリストレスの詩学をひきながら、「もしコンテンツが現実世界のシミュレーションであるならば、その尺度は何か」と問う。そして、ジブリのアニメを例にとりながら、情報量を主観的情報量と客観的情報量とに分離した上で、コンテンツの本質とは、現実世界の情報量と客観的情報量と主観的情報量の差によって表現されるものとする。納得性の高い合理的な仮説だ。

情報処理装置としての脳については、「脳は単純な情報しか扱えない」という大胆でシンプルな仮説が提示されている。著者はこれこそがコンテンツの差別化とクリエイターの悩みを生む要因であるとする。クリエイターの悩みとは、脳の中のイメージを再現する技術的な難しさ、脳の中のイメージを見つける難しさ、自分の脳にはないイメージをつくる難しさから構成されるからだという。コンテンツに関わる本質的で納得性の高い議論ではないだろうか。

同様に、本書では上記から演繹されるさらに2つの仮説が提示される。「人間の脳の中には、対象物の法則性を認識し、複雑なものを簡単な要素へ分解できるとうれしくなる回路が存在する」と、「人間の脳は、わかりそうでわからないものに興味を持つ性質がある」である。そのような回路があるかどうか、そのような性質が存在するのかどうかはもちろん明らかではない。しかし、人がなぜコンテンツを生み出し、それに惹かれるのかを考える上ではきわめて刺激的な仮説だ。演繹でも帰納でもない世界を認識する補助線としての仮説だ。もしそうだとしたら・・・ということを考えるきっかけを生む。世界を認識することに必要なのはこのような仮説だ。

そのうえで著者は、天才性とは人々の心の中に映し出されるビジョンを自分の脳の中でシミュレーションする能力を持っていることとする。一般論のようにみえながら、演繹的な操作が可能な拡張性の高い定義といえる。

さらに、ジブリの高畑アニメと宮崎アニメとをそれぞれ「思いやりのコンテンツ」「思い入れのコンテンツ」と位置付け、人々の脳の中に映し出されるものが「外的に他者を思いやるもの」から「内的に自らで思い入れるもの」へと変わりつつあるという。コンテンツ・情報量・脳の情報処理という観点から定義された現代的な「コンテンツの本質」が今後の社会にどのような影響を与えるのかを示唆するものとして興味深い指摘だといえる。