okadamktの日記

That's what we call a tactical retreat.

京都の街を舞台とする青春冒険綺談: 森見登美彦 『有頂天家族』



京都の街を舞台にした冒険綺談。狸と天狗と人とが三つ巴となり、狸的であること、天狗的であること、人的であるこという観念自体を愉快なギミックとしながら、すべての価値観が面白可笑しいかどうかに集約される。変幻自在、天空闊歩、哀しみと屈折と愛情に溢れた青春活劇。すべては絵画的であり、物語は鳥獣戯画の絵巻物のように展開する。

登場人物も愉快だ。主人公である糺ノ森に住む狸の名門・下鴨家の三男矢三郎はもとより、責任感に押しつぶされまいとするが融通が利かず土壇場に弱い総領の矢一郎、蛙として古井戸に住む次男の矢二郎、今は神通力を失った誇り高き赤玉先生、金曜クラブの紅一点、氷の接吻を持つ弁天、口が悪いが姿を見せぬどこか可愛い元許嫁の海星、敵役でありながら憎めない二人組の金閣銀閣

現代版ほら吹き男爵の大冒険。どこまでが本当か、どこまでが語り手である矢三郎の無駄口か。それともこれは我々が知らないだけの京都の街の実像か。「自由とはかくあるべし」と思い出させてくれる勝手気ままな清々しさがここにはある。

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青春とは、喪失の予感を感じながら、無限の可能性に生きることができる時間だ。この物語では、主人公をのぞいて、登場人物はすべて何かを失っている。赤玉先生は誇り高き自身を、弁天は人であった頃の「あの日」を、父は命を、母は夫を。兄たちは父を、あるいは自信や言葉を。弟は勇気を、海星は姿を、金閣銀閣は知性を。

主人公の矢三郎は、誰よりも真面目であり、その真面目さ自体を持て余し、ふざけた変幻にうつつを抜かす。この冒険活劇小説が、表面的な明るさとは裏腹に、可笑しくもどこか悲しさを持つ物語であるのは、通奏低音のように流れるその喪失感にある。主人公の矢三郎は、漠然とした喪失の予感をまといながら、「とは言っても狸ゆえ」を言い訳に、変幻自在の可能性の中に生きている。狸鍋として自らを喪失する可能性さえギミックなのだ。

現代は、具体的に何かを失うことが容易ではなくなった社会なのかもしれない。失うことは常に相対的にしか測れず、我々が日々感じているのも喪失の予感だ。この物語もドイツ風のビルドゥングスロマーン(成長物語)の様相を見せながら、非成長を希求する矛盾を内包する。周囲に喪失は存在するが自らが失ったものはなく、すべては相対であり、常に今しか存在しない。きわめて現代的な物語なのだ。哀しみも喪失も「であること」も、すべてはギミックであり、呪符のように配置された観念の世界だ。

だからこそ、諸処に描かれる京都の風景、街並み、空が美しい。そしてそれすらもギミックであり、風景は物語世界と混然一体となる。語り口も軽妙洒脱。リズム感があり、モノローグ的でありながら、少し遠景から引いたようなまなざし。だからこそ、読み進むにつれ、あたかも自分がそこにいるかのような錯覚に浸ることができる。すでに喪失した自分自身の青春のあの感触を懐かしく思い起こすことが可能になる。ほら話はほら話ではなくなり、喪失の物語は私の物語となる。物語的な変換が生まれる。赤玉先生や弁天の物語が客観から主観へと変質する。

「失ったもの、取り戻せると思うかね」と思わず問うてしまいそうになる。狸でもなく天狗でもない、如何にも人らしい問いを。

喪失の予感を感じながら無限の可能性に生きていた時間を苦々しく思い出し、赤玉先生と同様、我々もまたどうでもよい酒を飲む。案外、なくしたものは風神雷神の扇子と同様、ひょこりとでてくるのかもしれない。そんな予感も抱きながら。季節はまもなく初春なのだ。

【ポイント】

 1) 面白可笑しい冒険綺談
 2) 登場人物のユニークさと味わい
 3) ギミックとしての観念

【満足感:5段階評価】

★★★★★:5