okadamktの日記

That's what we call a tactical retreat.

呼ばれたい名前を名札に。

ワークショップに参加すると、よく『今日、呼ばれたい名前を名札に』と言われる。"日頃の肩書きに拘らず気兼ねせずに自由な気持ちで参加してください”という事務局側の配慮なのだろう。"肩書きを気にしてしまう人もいるから"という配慮、事務局側の参加者の気持ちに寄り添いたいという思いの表れだともいえる。確かに○○会社に勤務する△△という名札では無粋だし、その人の内発的なものよりも肩書きの方を見てしまうこともあるかもしれない。その思いは別に間違っているとかいう筋合いのものではない。

しかし、より大きな時間軸の中でワークショップを位置づけるとき、『今日、呼ばれたい名前を名札に』というのは有効なのだろうか。

もし『今日、呼ばれたい名前』がその場の思いつきでつけられていれば、その名は揮発性になる。ワークショップの時間は普通は2時間から3時間、長くて半日。揮発性の名前ではワークショップが終了すれば、あっという間に忘れてしまう。"あの人は面白い人だったな"と感じても「あっちゃん」だったか「やっちゃん」だったかを少なくとも私は覚えられない。天気がいいので「晴れ男」さん、緑が好きなので「グリーン」さんでは、面白くはあるが、それはその場限りのもの。それはそれでもよいのだ。しかし、同時に、それがワークショップ事務局が本当に実現したかった参加者間の関係性なのだろうかとも思う。

ワークショップの時間は限定されている。ワークショップはきっかけに過ぎない。もし、ワークショップをきっかけにして、何らかの人と人とのつながりまでをワークショップの意義として設計したいのであれば、『今日、呼ばれたい名前を名札に』は参加者に対しての最適な働きかけではないのではないかと思う。その場の思いつきの『呼ばれたい名前』は不便なのだ。

その意味で、『今日呼ばれたい名前』を促す事務局は参加者に配慮しているようで、実はそうではないのではないかと心の中では思っている。それよりは下記のリンクにあるように、『ネット上の通り名』を使う方がよっぽどスマートだと思う。  

 

ゲド戦記の中にある「真の名」は必要ではない。しかし、時間軸の中で継続する「アイデンティティーとしての名」でなければ、渋谷の交差点で偶然すれちがった人との立ち話(それはそれで面白いが)になってしまう。他者は他者ではなく、自己に投影されたイメージの中の影のような存在になってしまう。そんな風には思う。