okadamktの日記

That's what we call a tactical retreat.

「パワー」(Powers)

ル=グウィン、西のはての年代記 Ⅲ「パワー」(Powers)。

都市国家群のひとつエトラの少年奴隷ガヴィアには未来に起こることがらを「ヴィジョン」として見る力がある。しかしその彼の力が4つの章に分かれて語られるこの物語の主軸になることはない。それがこの物語と、西のはての年代記I「ギフト」(Gifts)や年代記Ⅱ「ヴォイス」(Voices)とで趣を異にする部分である。

物語の主役は社会の力そのものだ。それは希望を与え希望を奪う。登場人物たちの価値感は夢のように儚く脆い。その力は他者から奪うことを是とさせ、人々の生き方を歪める。あるいは無機質な生き方を強いる。

主人公の一人バーナは少年ガヴィアにいう。

どんなふうだったか、わたしにはわかる。きみは大きな館――都市の富裕な館の奴隷だった。そこの主人たちは親切にも、きみが教育を受けられるように取り計らってくれた。ああ、わたし自身、よく知っているんだ。それがどういうことか。きみは、自分は幸せだと感じるべきだと思っていた。きみには、学び、読み、教える力が――賢い人、学識のある人になる力があったから。それは、主人たちが与えてくれたものだ。主人たちがそれをもつことをきみに許したのだ。そうだとも! だが、何かをする力を与えられても、きみは、誰かの、あるいは何かの上に及ぼす力はもっていなかった。そういう力は彼らの――主人たちの、きみの所有者たちのものだったから。そして、きみが自覚していたかどうかは別として、きみは自分の体の骨の一本一本に、きみの心のすみずみに、きみをつかみ、操り、おさえつける主人の手を感じていたはずだ。そういう条件では、どんな力をきみがもっていたとしても、それは価値がない。なぜならば、それは、きみを通して働く彼らの力にほかならないからだ。彼らは君を利用していたんだ・・・。きみがそれを自分の力だというふりをすることを、彼らは許していた。きみは、ほんのひとかけらの自由を主人たちから盗み、それが自分のものであり、きみに幸せを感じさせるのに十分であるかのように装った。そうだろう?(p.260-261)

バーナの言葉は正しい。ガヴィアは苦痛をもってそう思う。なぜならその言葉はガヴィアのかつての美しい世界を破壊する事実だからだ。

バーナの世界もまた一瞬のうちに変容する。それをガヴィアは無感動に受け入れる。「パワー」(Powers)という物語に通奏低音のように流れるのは無力感だ。「敵」は去ったのか? 「自由」は得られたのか? 

それは読者に委ねられる。