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okadamktの日記

That's what we call a tactical retreat.

暮らしの保健室

社会 雑感

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小学生の頃、私の保健室は図書室だった。小学校の小さな図書室で本を読むことは私にもう一つの世界を与えてくれた。保健室には転んで絆創膏をもらいにいくか、掃除の当番で行くぐらいだった。保健室という場の価値、座ってゆっくりと話す価値はわかっていなかった。

中学生になると仲のよい友人と二人で毎日道の手すりに座って長いこと話をするようになった。私のかなりの部分はいまでもそのときの会話から出来ている。そのときに初めて、誰かと長い時間、座って話す価値に触れたのだと思う。しかし、社会人になると、誰かと座ってゆっくりと話す価値のことは忘れてしまった。

だから、初めて『暮らしの保健室』という言葉を聞いたとき、大事だろうなと理解はできても体感的な実感は伴わなかった。学校の保健室のような役割をもつ場所の価値、ちょっとした健康の悩みや大きな病気にかかった際の困りごとを相談できる場所の価値を、自分自身の記憶とともに話せる気がしなかった。そういうときの私はだいたい間違っている。

先日、医師の西智弘さんが、『暮らしの保健室』の活動をコアとする一般社団法人プラスケア(*1)を川崎市で立ち上げた。活動の中心を担う西さんと看護師の渡邊さんに少し丁寧にお話を伺う機会も得た。川崎市中原区で週に一回の「暮らしの保健室」を始めるという。先週の水曜には元住吉のイダカフェ(*2)で定期的な運用が始まり、翌土曜日、武蔵新城のNAYA enjoy space (*3)でも不定期ではあるがサテライトの活動が始まった。

武蔵新城のNAYA enjoy spaceは、自宅から5分ほどのところにある古い納屋をリノベーションした場所だ。先日オープンしたばかりで気になっていたので、西さんと渡邊さんへのご挨拶をかねて伺った。私はやはり間違っていた。用事で出かけるついでに挨拶に伺っただけなのに、用事にはギリギリアウトで遅刻する時間まで過ごしてしまった。

私はなにが間違っていたのだろう。何を理解していなかったのだろう。おそらく保健室の持つ価値への認識だ。そこは、まず誰かと座ってゆっくりと話ができる場所であり、その中で自分の健康への関心や意識を再認識する場所なのだろう。話をしたいと思わない人はいないのに、話をする機会は限定されている。自分や家族の健康に関心がない人はいないのに、それを少し専門的な見方もいれながら話す機会も限定されている。そのギャップを埋める場所なんだなと私は初めて実感した。あたりまえ? そう、あたりまえのことが私はわかっていなかったのだろうなと改めて思ったのだ。

自分や家族の健康のことを考えるときに我々は今どうしているのか。テレビで関連しそうな番組がやっていればそれをみる。本屋で関連の本を手にとってみたり、雑誌の特集があれば買ってみる。インターネットで検索してみる。

「誰かと話してみる」が抜けている。もちろん、私と違って友人の多い人であれば、「最近、○○が気になってさぁ」と気楽に話をするのかもしれない。でも、私はそういうタイプではない。少なくとも自己認識はそうでもない。話をすること自体は苦ではないが、話題の選択は自分の中でコントロールされている。体重について冗談めかしていうことはあっても健康の話題はそれほどつっこんではしない。「話してみる」が実際には存在しない。そこに確かにミッシングリンク(*4)、日々の生活と医療との間の埋めるべき非連続性が存在する。

たとえば先日骨折したことによるリハビリ。もちろん、病院でリハビリの専門職の人とは話をする。周囲の人とも冗談めかして話す。けれども、その冗談の中で自分がぼんやりと感じていること、専門職の人と話すには少し気が引けてしまうことは話してはいない。深い悩みではないので話さなくても困らないし、話したいと思うほどのにも自覚もできていない。そういうことが確かにある。自分自身のことなのに私はそれを認識していなかった。

「さぁ話しましょう」とお膳だてされていない空間の価値。世間話だけではない、そこにいる人が保有している知識と経験の価値。話すことから得られることの価値。そういうものの意味がわかっていなかった。

翻って考えれば、同じことはテクノロジーについてもいえる。およそエンジニアで給料を得ているものであれば誰かの「PC買おうと思っているんだけどさぁ」という相談には苦もなく乗れる。同じことなのだ。情報社会と言われて久しいのに、「情報の洪水が」と言われてすでに40年なのだ。それなのに、人による情報のスクリーニングの価値や情報の粘着性(*5)に対しての知識の流動性の増し方を私はきちんと考えていなかった。

「暮らしの保健室」には、表面的ではない、再構築すべき現代的な意味が埋め込まれている。すくなくとも私はそんな風に感じ始めた。

(*1) プラスケア

(*2) イダカフェ

(*3) NAYA enjoy space
https://www.facebook.com/NAYAenjoyspace/

(*4) ミッシングリンク
ミッシングリンク - Wikipedia

(*5) 情報の粘着性
http://mba.kobe-u.ac.jp/square/keyword/backnumber/33ogawa.htm

わすれな草

社会 認知症 雑感

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認知症に関する私的ドキュメンタリー映画「わすれな草」(*1)の日本公開にあわせ、「認知症にやさしい生活圏とは」というテーマでパネル・ディスカッション(*2)が東京ドイツ文化センターで開催された。

モデレータは慶應大学大学院健康マネジメント研究科の堀田聡子さん、パネリストはDAYS BLG!の町田克信さん、杉本欣哉さん、前田隆行さん、筑波大学ダイバーシティ・アクセシビリティ・キャリアセンターの河野禎之さん、そして映画にも出演されていた監督のお父さんのマルテ・ジーヴェキングさん。
映画は渋谷のユーロスペースで前日に公開されたばかり。会場の参加者も「わすれな草」をすでに観た人の方が少ない。東京ドイツ文化センター主催の会で、「認知症にやさしい生活圏とは」というハードルの高い問いがかみ合うのだろうかと心配になった。しかしそれは杞憂だった。非常によい会だったと思う。


 「生活圏」とは静的なシステムではない。それがこの日の結論ではなかったかと私は思う。

認知症であること、認知症の家族とともに生きること。それは認知症という出来事に接することによって生まれる間主観的な発見を伴う新たな動的な旅だ。家族という立場のマルテさんはそれを「周囲の治療」というやや生硬な表現で語った。河野さんは河野さんの祖母との関わりを、杉本さんの奥様は杉本さんと絵画を一緒に見に行かれたときのことを話された。いずれも同じ源を持つ水脈からの言葉だったように思う。

家族の中であってさえ、お互いを再認識する新たな発見の機会が訪れる。それが相互に受容され、お互いの関係性が再構築されていく。一連の変化のプロセスの重要性が「生活圏」という言葉に誘発され、対話として紡がれていった。

認知症については二重のスティグマがあると言われている。社会の中のスティグマと、社会によって副次的に生み出されるた自らの中のスティグマだ。しかしそれとは別に「自らの中にある人と人との関わり方に関する思い込み」にも解くべきポイントがあるのかもしれない。

マルテさんが語っていたこと、映画の中で息子さんであるダーヴィッドさんが表現されていたことは、妻であり母であるグレーテルさんとの関係性への思いが、グレーテルさんを起点としてまるでブーメランのように自らに還ってくるターニング・ポイントの体験ではなかったか。そんなターニング・ポイントの体験により、マルテさんやダーヴィッドさんが自らの人生への認識を変化させていく。それは「よい先輩との出会い」にも似ている。

人生は、数学的とも物理的ともいえる非線形な様相の変化だ。マルテさんの数学者としてのバックグラウンドから語られる言葉はそんな印象を私に与える。

知識から認識へ、認識から意識へ、意識から行動の変容へ。マルテさんは前日の舞台挨拶で「わすれな草という映画はその全体をみてほしい」と語った。この映画は確かに、一連の発見のプロセスを記述している。

(*1)
(*2)

2125年の人口

社会 雑感

総務省統計局のサイトにある「日本の統計2017」の「第2章人口・世帯 2- 1 人口の推移と将来人口(エクセル:41KB)」から2015年以降の人口を切り出して表にしてみた。数字の単位は千人。

f:id:okadamkt:20170416090648p:plain (表1)

淡々とした数字だが、0~14歳の年少人口は2095年では2015年の3割の479万人と推定されている。総人口も6000万人を割って5332万人だ。65歳以上の老年人口の占める割合である高齢化率は2095年で41%と超高齢社会であることは間違いない。一方で、絶対数でいえば老年人口は2045年にピークアウトし、2095年では2015年の2/3になっている。

表2は表1から10年ごとの人口変化率を計算したものだ。総人口の10年ごとの減少率は2075年以降、ほぼ-13%に落ち着く。老年人口は2025年では2015年に比べ10%の伸び率だが徐々に減少、2055年にはマイナスに転じ、2095年には-13%を越える。0歳~14歳の年少人口も2025年までの-16.7%は急激な減少だが、これも2095年には-14%前後だ。

f:id:okadamkt:20170416091736p:plain(表2)

統計局のサイトは2095年までの推定で、以降は数字が公表されていない。図1では2100年以降の総人口と年代別人口をそれぞれ10年ごとに-13%の減少率として外挿している。2100年以降の10年ごとの減少率がそれほど急速には変化できないとすれば、それなりに妥当な外挿だろう。

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2125年、私はすでにいない。しかし、もしこの仮定の計算のように、仮に人口が2125年に4000万人を切ってしまうのであれば、都市の本質的な再設計はいまからあってしかるべきかもしれないとは思う

【参考】
2- 1 人口の推移と将来人口(エクセル:41KB)
統計局ホームページ/日本の統計 2017−第2章 人口・世帯より)

 

 

 

未来を推計する

社会 雑感

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人口はすでにある未来だ。

友人の結婚式で主賓の小児科の先生が、「合計特殊出生率が1.5では私の年収はやがて半分になってしまいます。ぜひたくさんのお子さんを・・・」と、冗談とも本気ともつかない挨拶をされた。1995年頃の話だ。この年の合計特殊出生率1.42だった。

ドロシー(妻)が中学生の頃に仲のよかった友人限定(女性5人)だが、合計特殊出生率はうちをいれて0.6にしかならない。私的な感想でしかないが、都市部の合計特殊出生率の実感は1.5よりもかなり低い。

小児科の先生の「小児科の年収がやがて半分になる」という話は面白いと思ったので、帰宅してから、いくつかの仮定を置きながら、合計特殊出生率1.5で、ごくごく大雑把な計算をしてみた。ひとつは2100年の日本の人口。ひとつは"鯨"、"冷牟田"、"牟田神東"など稀少姓が何世代ほどで絶滅してしまうかの見積もり。ちなみに"鯨"という名字の全国順位は14,072位、全国人数はおよそ420人だ。

概算してみて、2100年の日本の人口については、数値の上振れ・下振れを含めても9000万人-6000万人になる蓋然性は高いだろうなとそのときに思った。

実際、総務省統計局のサイトにある「日本の統計2017」の「第2章人口・世帯 2- 1 人口の推移と将来人口(エクセル:41KB)」を見ても、2095年の日本の総人口の中位推計値は5332万人になっている。私の計算の方がやや希望的であったといえる。ちなみに「日本の統計2017」によれば、0歳-14歳の年少人口は、2015年の1680万人が2020年には224万人減の1456万人、2095年には2015年の約1/3の479万人になる。

2- 1 人口の推移と将来人口(エクセル:41KB)
統計局ホームページ/日本の統計 2017−第2章 人口・世帯より)

未来予測でもっとも確度をあげやすいファクターは人口推計だ。この数字はそんなに簡単には変化しない。したがって、通常、シナリオプラニングではその値は変数ではなく定数的に扱う。

いまから35年近く前の1981年、まだまだ社会が高度成長的にも見えていたとき、東京郊外の東久留米市の職員の人と話をした。そのとき、その人はすでに30年後の東久留米市の高齢化と税収減を心配していた。私が人口の推移に興味を感じる原点はそこにある。

人口はすでにある未来なのだ。

参考)

 

アオキの花

自然

アオキの実は赤く美しい。庭木としても鑑賞用によく植えられている。アオキの実の季語は冬。

種は実を食べた鳥によって散布され、またそれほどの明るさを必要とせず成長する。だから、アオキは都市部の薄暗い林でも普通に生えている常緑の低木だ。目黒にある国立科学博物館の附属自然教育園は、園内をできる限り自然の本来の姿に近い状態で残そうという方針で運営されているため、正直、アオキだらけだ。

薄暗い林でいくらでも生えてくるので、それ自身は有用な植物ではあっても、アオキ・ヤツデ・シュロは、いわゆる都市部の緑地保全緑地ではあまり大切には扱われない。どちらかといえば増えすぎるから、除伐の対象にすることも多い。大切にしないと注意してみることもなくなってしまう。私にとってアオキはそんな植物だった。

アオキの花は春の季語。そんなことも知らなかった。

青木の花のさかりも知らずあたたかき(松尾松蘿)
竹林のひかりを侍み青木咲く(松田純栄)

今日、初めて、アオキの花を認識した。小さな可憐な花だ。雌雄異株というから、これは雄株か。

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年末に大規模に除伐して拓けた谷戸に実生で咲いていた。

壁の乗り越え方

雑感 社会

壁の乗り越え方には複数の方法がある。下記のリンクの絵をみてそう思う。f:id:okadamkt:20170409073221j:plain

組織の壁をどう越える?「バウンダリー・スパニング・リーダーシップ」とはより)

ジョージ・ガモフの「不思議の国のトムキンス」では、主人公のMr. トムキンスは、光の速度が自動車程度の速度だったり、量子力学の性質を特徴づけるプランク常数がとても大きな世界で不思議な経験をする夢をみる。(不思議の国のトムキンス - Wikipedia

プランク常数がとても大きな世界では、壁は乗り越える必要がない。トンネル効果で通り抜けることができるからだ。Mr. トムキンスの見たのは夢だったが、現実も、壁自体は我々の心の中にあるのかもしれない。心のプランク常数を大きくすれば、通常世界では起こらないと思っていた不思議なことが起こる。

「そんなことはやっぱり心の中のことでしょう、壁はやっぱり乗り越えなければ」という体力に秀でた方には、壁の下に穴を掘る作戦をお進めしたい。私は乗り越える派ではなく、穴を掘る派だ。

でも本当は、「よく見たら、ドアがあるじゃん」とか「ちょっと先で壁が途切れてた」とか、そういうこともあるかもしれない。私はそういうのを発見するのが一番好きだ。

発見には、演繹的な論理や帰納法的な論理だけではなく、仮説的推論発見のため論理的推論(アブダクション)も必要だ。自分にはできていなくても壁を乗り越えている人がいるのであれば、その理由があるはずだ。

心のプランク乗数を大きくするということは、「なぜ」に対する自分の心の門戸を開くことに他ならないと私は思う。


 

ミスキャスト

雑感 社会

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亡くなってしまった古い友人がよく「ミスキャスト」という言葉を使っていた。その人が持つ本来の能力や個性に対して、その人が就くべきでない役職やポジションに就いてしまっている状態をさす。昨今のTVニュースを観ながらときどきその言葉を思い出す。

ミスキャストという言葉が描く世界観は、すべての管理職は無能であるとするピーターの法則とはまた異なったものである。

ピーターの法則は、ユーモアを交えて、現実世界を以下の3つの視点で切り取ったものだ。

1. 能力主義の階層社会では、人間は能力の極限まで出世する。したがって、有能な平(ひら)構成員は、無能な中間管理職になる。
2. 時が経つにつれて、人間はみな出世していく。無能な平構成員は、そのまま平構成員の地位に落ち着く。また、有能な平構成員は無能な中間管理職の地位に落ち着く。その結果、各階層は、無能な人間で埋め尽くされる。
3. その組織の仕事は、まだ出世の余地のある人間によって遂行される。(ピーターの法則 - Wikipediaより)

友人が言っていた「ミスキャスト」という言葉はそれとは違う。より暗いニュアンスだ。「能力」とは異なる要因によって、その人では不適切な「役割」に就いた状態を記述する言葉だ。

ミスキャストも、ミスキャストによって何かが上手く機能しなくなることも、現実世界ではよく起こる。それを止める有効な手段はない。友人がよく言っていた別の言葉は、「馬鹿の再生産」と「馬鹿は馬鹿を呼ぶ」だった。皮肉な表現形だが、現実には、ままそれは起きる。ミスキャストは連鎖するのだ。

我々にできることは多くない。自分がミスキャストの直接・間接の当事者になってしまう可能性に、どれだけ自覚的でいられるかぐらいだろう。ミスキャストによる被害を無くしたり最小にする努力も無駄だ。ミスキャストの被害を打ち消すことはできない。ミスキャストによる混乱であれば、被害を無くそうと努力も「ミスキャスト」の影響下での実施になる。マーフィーがいうように、予想される不幸な事態はすべて起こる。上手くいかないという事態も当然含まれる。被害は逆に拡大する。最終的にはなすすべもなく立ち尽くすことになる。

ミスキャストに自覚的であることは難しい。無自覚であることが「ミスキャスト」の構成要素の一部でもあるからだ。

かといって微妙な自覚もまた不幸な結果を呼びやすい。ミスキャストされてしまった本人については、ミスキャストに無自覚であることよりも、ミスキャストの自覚を歪んだコンプレックスという形で表出した場合に、周囲により不幸な事案を引き起こす可能性もある。

「ミスキャスト」者の歪んだコンプレックスは容易に他者への攻撃性へと変化する。結果生まれる怨嗟は淀んだ空気として世界に蔓延する。

ディストピアの「1984年」を「走れメロス」のように読みかえると言ってもよい。「走れメロス」の王の主観にたって「1984年」を読み解くでもよい。

ニュースピークスの本来的な意図は「ミスキャスト」者のコンプレックスをかき消すことにある。教条主義も実に便利だ。迎合する行為にも合理的なメリットもある。「走れメロス」の王や「1984年」の世界を支えていた周囲のモチベーションは、かならずしも「恐怖」だけではない。

ミスキャストは非合理な世界を象徴する。ミスキャストの非合理性は当事者のコンプレックスと相まって非合理的なより不幸な事象を引き起こす。そしてそれを持続可能とするのは周囲の合理的な行為である。

今日は天気が悪い。その上奇妙なニュースばかりを見続ければ気持ちも当然暗くなる。二重思考はかく生み出されたのではないかと思う。

「1984年」を久しぶりに読み直してみようかと思う。