okadamktの日記

That's what we call a tactical retreat.

第2中世への予感:熊代亨『融解するオタク・サブカル・ヤンキー ファスト風土適応論』

本書のタイトルは「融解するオタク・サブカル・ヤンキー」だが、本書の主題はそこではない。副題の「ファスト風土適応論」こそが本書のメインディッシュだ。

もちろん、かつて「オタク」「サブカル」「ヤンキー」と呼称された文化とその後の変遷、そしてそれを支えた若者の傾向が、現代(2014年)の視座からみた位置づけや分析とともに語られている。章立てでいうと「第二章」「第三章」がそれにあたる。ページ数でいえば47ページから118ページ、全体で200ページ弱の本書の4割弱に相当する。

第2章 オタクもサブカルもヤンキーもいなくなった
第3章 オタク/サブカルの年の取り方 

一方、メインディッシュといえる「ファスト風土適応論」には、「はじめに」「第一章」「第四章」「第五章」と本書の約6割があてられている。文脈の違いは目次からもうかがえる。

はじめに 「ヤンキー的な。オタク的な。サブカル的な。」
       20世紀的な幸福モデルが失効した世界で
第1章 国道沿いの小さな幸せ
第4章 国道沿いに咲くリア充の花 
第5章 追いかけてきた現実(リアル)

「はじめに」の項目でも明かなように、「オタク」「サブカル」「ヤンキー」は括弧書きの記号であり、本書が述べている主題は異なる文化的な水脈であり、本書の主題である。そしてそれは、2000年代までに日本全国に拡大した、ファスト風土文化で一律的な舗装をされたロードサイド文化圏で生きる若者の様相である。

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著者が注目するのは、奥行きやディテールを趣味生活に求めないファスト風土文化と、時間的にも金銭的にも余裕がなく、なけなしのリソースをズッ友な人間関係の再生産に費やす若者文化との関係である。その二つの様相は、手許にあるモノやコンテンツをきちんと楽しみ、それなりに満足できることを大切にし、特別な私を求めない姿勢、ファスト風土文化をごく自然に受容する文化的価値感を醸成する。

その価値感は、「オタク」「サブカル」「ヤンキー」という記号的の中にアイデンティティを見いだそうとした旧来の若者とは異なる。「特別な私」を購買する必要を感じず、ファスト風土文化の中で充足して生きる若者観は、著者オリジナルの現代社会論だ。細かな差違を必要とせず、与えられた記号の享受で十分に新鮮な満足を得られる人々の存在は発見的だ。農業的価値感とも宗教的価値感とも異なる源泉の第二中世的な価値感を予感させる。二十世紀価値感とはまったく異なる様相といえる。

著者の主張は従来の若者文化論とはかなり立ち位置が異なる。個性・主張・ユニークさといった価値のデフレ現象を記述している。「同じものが好きでいいじゃない。」、「特別である必要なんてないよ。」、「それってなんのマウンティングですか?」、「”ゆとり世代”? ”さとり世代”? オレら”おわり”世代ですから。それでいけない理由もないし。」、そんな呟きが向こう側に見え隠れする世界の記述だ。

その上で著者は「ファスト風土文化は続くのか?」と問う。ファスト風土文化は、コンビニやファストフード郊外大型モールという文化と嗜好の工業的流通を前提とする。過疎化や採算性が伸びきってしまったこれからの時代、その豊かさも担保されない。

進出から撤退、発展から衰退へのフェーズ・シフトはすでに始まっている。採算という経済合理主義は、ファスト風土文化の基盤を揺るがせる。ファスト風土文化を支えてきた店舗は消え、人々は物質的にも文化的にも空白に直面する。それにどう対処すればよいのか。著者が提示する答えのない問いである。

問いは答えを求め、空白は埋めるものを求める。何がそれを埋めるのか、まだはっきりとはみえない。融解してしまった「オタク」「サブカル」「ヤンキー」ではないことは確かだ。だからこそ、著者は本書のあとがきで「"精神の受け身をとるための方法論"のニーズは、これからもっと高まっていく」と指摘しているのだろう。

媒体としての性質

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媒体には性質があると私は思っている。

たとえばFacebookは、深い”対話"や"議論"に向いた媒体ではなく、"提示"に向いた媒体だと思う。だから私は、Facebookで他の人のタイムラインに直接コメントを書くよりも、その人の"提示"をシェアをし、自分のタイムライン上で私が考えたり感じたことを述べるようにしている。

他の人のタイムラインにコメントすることは、その人の知人たちに向けて書くことに相当する。それはかなり勇気が必要なことだ。それが特定の「主張」にもとづくものであればなおさらだと思う。私はときにそれを乱暴に感じる。

もちろん、感想やちょっとしたコメントが嬉しくないはずがない。しかし、自分のタイムライン上で「主張」を展開されると、どうしたものかなと困惑を感じる。

逆に私は、私のFacebook上の知人がそれぞれのタイムラインで書いていることを、あたかも街の音をベンチに座って聴くように、静かにみていることが多いように思う。絶対とは言い切れないが、「意見」的なものについても、概ねイイネをするかしないか。

それでも、うっかり自分が「感想」を超えた少し強い「主張」のコメントをしてしまったときは、「なんだか困惑させただろうな」と、その後、少し落ち込む。

さまざまな人たちのタイムラインには、私とは異なる「意見」や「考え方」はある。しかしそれでよいと思うし、それがよいと思う。

そんな「意見」や「考え方」は、「そういう考え方・感じ方もあるんだ」と私に新たな気づきを与えてくれる。考えるきっかけとなる。私の中で内発的な"対話"が起こる。

そんな風に、私はFacebookを、基本的に"提示"に向いた媒体だと思っている。

トリプルボトムライン

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トリプルボトムラインという言葉のことをよく考える。

トリプルボトムラインとは、企業の価値やパフォーマンスを、財務的側面だけから考えるのではなく、そこに積極的に環境的側面、社会的側面への評価を加えていこうという考えだ。1994年に英国のJohn Elkingtonが発明した。

John Elkington (business author) - Wikipedia

トリプルボトムラインという言葉の普及によって、企業は環境レポートやCSRレポートにも力をいれるようになった。評価の軸を新たに発明することには、そういう価値がある。
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2012年にブリティッシュカウンシルと"Futures: Inspiring Social Innovation"(*1)という取組みを企画した。

その"Innovation Journey"の中で、トリプルボトムラインを提唱したJohn Elkingtonにもインタビューをしている。下記の動画の3分30秒あたりから。Johnがここで語っていることは、私のお気に入りのパートだ。

インタビューではJohnに"Futures"がテーマとした"Across Sectors, Across Borders”の価値について聞いた。 Johnはこう答えている。

【セクターを越えた協働】
ビッグデータなどの比較的新しいテクノロジーの登場やサステナビリティアジェンダの台頭で、多様な企業、活動家やセクターの集合体が作られ始めている。

【システムチェンジ】
ひとつの企業、産業セクター、特定のサプライチェインが単独で解決することはできない。

【社会エンジニアリング】
多様な企業・セクターの協働を可能にするためには、社会イノベーション、社会エンジニアリングが必要となり、ある意味それがチャレンジの一部分となっている。

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DFJI(認知症フレンドリージャパン・イニシアチブ)の活動の中で、"指標"を重要視するのには意味がある。トリプルボトムラインの文脈でいえば、認知症に関する議論は社会的側面への対応であり、それは環境の話よりも定量化が難しい分野だからだ。

定量化が難しい分野だからこそ、丁寧に、そして熱心に、指標について議論する必要がある。"どの領域に対して", "どのようなタイミングで", "誰が", "何を”, "どのように", "なぜ", といった5W1Hに相当することを新たに構築していく必要がある。

DFJIの指標のプロジェクトはそういう位置づけにある。ボトムアップ型の指標をどのように生成するのかという2015年からの活動も、2017年4月に京都で行われたADI2017(第32回国際アルツハイマー協会国際会議)で、様々な指標に関する取り組みを一同に示すワークショップを企画した意味もそこにある。

ADI2017ワークショップ:『認知症にやさしい地域』を評価する – 認知症フレンドリージャパン・イニシアチブ


このような活動を、セクターや国境を越えて継続していくことで、我々は知恵を寄せていくことができ、トリプルボトムラインの社会的側面もまた評価可能となっていくのだと私は思う。

問いをより深めるために:ウォーレン・バーガー『Q思考 ― シンプルな問いで本質をつかむ思考法』

「アイディアはつねに「疑問」から生まれる」。では、その問う力について真剣に考えるとはどういうことなのか。本書は著者自身のそんな問いから生まれたものといってもよいだろう。問うという行為の必要性、価値、よい問いの例、問いを妨げるもの、よい問いに近づくための工夫。本書は、問いにまつわる著者の思考の軌跡と考えることができる。

いわゆるHow-to本とは性格が少し異なる。よい問いをつくる手順がレシピのように書かれた本ではない。本書の原題は”A More Beautiful Question”。著者は「美しい問い」をこう定義する。

私たちが物事を受け止める、あるいは考える方法変えるきっかけとなる野心的だが実践的な質問のこと。(p.13)

本書には、「美しい問い」を発見するために著者が収集したさまざまな知恵がそこかしこに書かれている。それらを実際に試し問い続けることこそ、「美しい問い」へ読者が到達するための最善の道だ。本書は、読者が自らの「美しい問い」を発見するための最初の一歩を踏み出すためのガイドブックといえる。

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本書には、著者のジャーナリストとしての洞察に満ちたフィルターを通して編纂された知恵がちりばめられてられている。その知恵は辞書のようには配置されない。森の中で新しい発見をしながら散策するように描かれている。

著者が勧める知恵は即物的というよりは内省的だ。たとえば著者は「なぜ?」という問いのために必要なこととして下記をあげる。

  • 一歩後ろに下がる
  • 他の人が何を見失っているのかに気をつける
  • 前提条件(自分たち自身を含む)を疑ってかかる。
  • 前後関係をよく見極めながら、つまり「文脈的探求」を通じて、足下の条件や問題の理解を深める。
  • いま抱いている疑問を疑う。
  • 特定の疑問や質問については自分が主導権を握る。(p.134)

そして、そのための工夫として、下記のような実践を提案する。

  • 自分がよく知っているものを見ているときに、あえてそれを新鮮に感じるような「ヴジャデ」(既視感:デジャブの逆)のトレーニングをする(p.149)
  • トヨタの方法「なぜを5回繰り返す」では、問いを「開いたり閉じたり」して質問のレベルを上げる(p.171)
  • 「もし~だったら?」という問いは、極端な「仮定」で現実をひっくり返す(p.202)
  • 「どうすれば?」という問いは、実践によって失敗をしダメージを受けながら「少しずつ」進む(p.221)
  • 「ブレイン・ストーミング」の代わりに疑問や質問を生み出す「クセスチョン・ストーミング(Qストーミング)」を行う(p.270)
  • Howに躊躇しがちな人々に対して、「どうすればできそうか?(How might we?)」と問う(p.274) 

 著者が求めているのは哲学的で答えのない質問ではない。著者が本書で対象としたいのは、行動に結びつく疑問、目に見える形で確認できる結果や変化に結びつく質問だ。著者は理論物理学者のエドワード・ウィットテンの言葉を引用する。

私はいつも、回答しがいがあるほどに難しく(そして面白く)、実際に答えられる程度にはやさしい質問を探している(p.14)

示される工夫が内省的なトーンを持っているのは、著者が問いという行為を世界を構築する手段だと考えているからだろう。だからこそ、著者は、ポジティブな問いを推奨し、下記のような言葉を引用をする。

組織は自らが発する問いに引き寄せられる (p.44)
私たちはみな、自分たちの問いかけがつくりだす世界に生きているのだ(p.45) 

 美しい問いが世界を創造する。それが著者からのメッセージなのだ。

仮説の振れ幅を再考させてくれる:エベネザー・ハワード『明日の田園都市』(新訳)

エベネザー・ハワードによって1898年に提唱され、1992年に「明日の田園都市」("GARDEN CITIES of To-Morrow")と改題されて出版された本書は「近代都市計画論」の古典として位置づけられている。本書は、"田園都市"("GARDEN CITIES")という牧歌的ともいえる語感の表題を持つが、内容は産業革命後に急速に進んだ都市への人口集中に対する解決案の設計について記述したものだ。

実際、第1章の『「町・いなか」磁石』では、冒頭から、「読者のみなさんには、約24 km^2を擁する広大な敷地を考えていただきたい。そこは現在は完全な農地で、公開市場では1エーカーあたり40ポンド、つまり総額24万ポンドで購入したものだ。購入資金は、担保付き債券の発行で調達されていて、その平均金利は4%を越えないものとなる」ときわめて具体的な提案を行っている。

第2章以降も同様で、

 「第 2章 田園都市の歳入と、その獲得方法 - 農業用地」
 「第 3章 田園都市の歳入 - 市街地」
 「第 4章 田園都市の歳入 - 歳出の概観」
 「第 5章 田園都市の歳出詳細」 

 と歳入・歳出に関する概要が示しているし、第6章以降は、その運用形態と各種疑問に対する解答という体裁になっている。

 「第 6章 行政計画」
 「第 7章 準公共組織 - 地方ごとの選択肢としての禁酒法改革」、
 「第 8章 自治体支援作業」
 「第 9章 問題点をいくつか検討」
 「第10章 各種提案のユニークな組合せ」
 「第11章 道の先にあるもの」
 「第12章 社会都市」
 「第13章 ロンドン将来」

 ハワードの提案が、ハード面よりもソフト面で重視していることも重要だ。たとえば、「第7章 準公共組織」では「公共事業と民間事業との間にはっきりした一線を引くことはできない」としながら、都市運用の設計を前提として、商店や店舗を運営する個人や組織に対する提案の形態を取っている。

なお、F. J. オズボーンによる序文(1945年/1965年の再刊時)と新訳に際しての訳者あとがきは、本書の位置づけを理解する上でのよい解説となっている。

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本書には都市のグランドデザインを再考するトリガーとしての価値がある。100年以上前に出版された本だが、拡大型の非平衡状態から少しずつ準平衡状態へと移行しつつある現代の日本において、都市の再設計に関する議論を改めてすべき時期にあるからだ。本書で述べられた提案がこれからの日本の都市のグランドデザインとして有用であるかどうかは問題ではない。重要なことは、時代の変曲点にあって、より具体的でかつ大規模なデザインに関する議論を、ハワードと同様、私たちがもっと活性化すべき時期にあることだ。

ハワード自身は、「第10章 社会都市」でこう述べている。

 現存するものは、存在できるかもしれないものをしばらくは妨害できるだろう。でも、進歩の波を押しとどめることはできない。こうした混雑した都市はその役目を果たした。おもに利己主義と強欲に基づいている社会が建設できるのはせいぜいがこんなものだったのだけれど、でも人間の性質の社会的な面が、もっと大規模に実現を求めている社会には、まるで適応していない。この社会では、自己愛そのものですら、同胞たちの福祉をもっと重視せよという主張をもたらすのだ。
 今日の大都市は、地球が宇宙の中心だと教える天文学の著作がいまの学校では使えないのと同じくらい、同朋精神の発現には適用させられないのだ。それぞれの世代は、自分のニーズに合わせて建設を行うべきだ。そして先祖が住んでいたからというだけで人があるところに住み続けるというのは、ずっと大きな信念と拡大した理解のおかげで過去のものとなった古い信念を抱き続けろというのと同じで、別に物事の本性でもなんでもないのだ。
 だから読者のみなさんは、自分が無理もない誇りを抱いている大都市が、いまのよう形ではまちがいなく永続的なものだなどと、無条件に考えないでいただきたいと、わたしは心からお願いするものだ。(p.239)

 ハワードが提案した設計は「居住者の規模は3万人程度、土地はすべて公有かそのコミュニティのために信託化」という条件に基づくものだ。それは直ちに現代の日本に適用できるものではもちろんない。しかし、都市をアプリオリに捉えるべきではないというハワードの問題意識は、ハワードから100年を経た私たちにも訴えかけてくる。

彼の時代の前提と私たちの時代では、社会的環境も社会的な課題も異なっている。しかし、彼の大胆ともいえる視座は、時代の大きな変曲点にいる私たちにとって、都市モデルの仮説の振れ幅を再考する上での試金石となりうるだろう。

 

言葉と鳥と島への愛に満ちた啓蒙書:川上和人 『そもそも島に進化あり』

本書は、海に囲まれた「島」という存在が生物の進化にどのような意味をもつのかを考察しており、一般的には科学啓蒙書のジャンルに属している。

著者は、「ここに海終わり、島始まる」と、読者を島嶼という環境のもつ生物学的な魅力へと誘う。島嶼という字が読めなくても心配ない。島には青い空と白い雲が広がっている。本書は「島」と「生物の進化」との関係を通奏低音としながら、著者とともに人生の機微を呵呵と大笑するための本でもある。著者自身の島と鳥への愛に思いをはせ、島と生物学の魅力を味わいつつ、読者は愉快な休日を過ごすことができるだろう。もちろん、私も島嶼を読めなかった。

目次にも注目してほしい。

はじめに ここに海終わり、島はじまる
序 そもそも島は
第1章 島が世界に現れる
第2章 島に生物が参上する
第3章 島で生物が進化を始める
第4章 島から生物が絶滅する
第5章 島が大団円を迎える

読み進めるにつれ、読者は著者が描写する「島と生物の進化との関係の特殊性と一般性」に触れ、その意味に囚われてしまうことだろう。

もし読者が「島」にも「鳥」にも「生物の進化」にも興味がないとしても心配ない。「ヒットガール」「ダメ!絶対!」「モンゴリアンデスワーム」「ジャイアンなき後のスネ夫による暗黒支配」などのキーワードに反応する感性をお持ちなら、十分本書を著者とともに楽しむことが可能だ。

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それにしても、「第5章 島が大団円を迎える」とは、久しぶりに目次に「大団円」という文字を見た。目次に躊躇なく「大団円」という言葉を記す感性は、遠藤周作か北杜夫か源氏鶏太ぐらいのものである。人生に対する達観と暖かな視座と洒脱を楽しむ気持ちが伝わってくる。科学的な視点をある種の詭弁・強弁の類いとするバランス感覚も楽しい。

バランス感覚は各章を構成する目次にも現れている。たとえば、海に囲まれた存在である島への生物の様々な到達方法を記した「第2章 島に生物が参上する」は、以下の7つの項から構成されている。

1. 島に招くには、まず隗より始めよ
2. 食べれば海も越えられる
3. 太平洋ヒッチハイク
4. ビッグ・ウェンズデー
5. 風が吹けば、誰かが儲かる
6. 早い者勝ちの島
7. 翼よ、あれが島の灯だ 

 島の生物の不安定さについて記した「第4章 島から生物絶滅する」は、以下の5つの項から構成されている。

1. 楽園の落日
2. 闘え! ベジタリアン
3. プレデター vs エイリアン
4. 拡散する悲劇
5. カガヤクミライ 

この構成から、本書が生物に関する啓蒙書であることを逆演算することができるならば、おそらくあなたは天才なのだろう。

生物の進化の妙を記した「第3章 島で生物が進化を始める」の「6. 植物がかかる島の病」「7. フライ、オア、ノットフライ」は、それぞれ以下の5つの項と8つの項に分かれている。

・沈めタイヤキ君
・多機能も、いずれは宝がもち腐れ
・見上げればいつもと違う草
・耐えられる存在の地味さ
・ヘルマフロディトスからの脱却 

・さらば空よ
・用がなければ飛びません
・小さくて低いのは、お嫌いですか
・無理はしません
・悪魔との契約
・引きこもりの進化
・鳥類肉体改造化計画
・念のため、鳥以外もみておくか 

本を読む愉しみはさまざまだ。そして「言葉を愉しむ」ことは、その中でもなかなか得がたい愉しみの一つといえる。本書はその愉しみを、思う存分味あわせてくれる。言葉がことばを引き出す言葉のダンス。北杜夫や遠藤周作のエッセイには確かにそれがあった。立川談志の落語の魅力も一部そこにある。言葉は飛びはね、跳ね返り、科学的概念とともに楽しく踊っている。

目次だけでもこの愉しさなのだ。そして本書は啓蒙書だ。挿し絵、脚注、概念の抽象化、具体化、すべてを総動員されている。文末の「参考になるかもしれない本~島への興味に心を動かされた読者のために~」では、さりげなく森村桂「天国にいちばん近い島」があげられている。すべては「島」と「鳥」への愛ゆえに。

暮らしの保健室

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小学生の頃、私の保健室は図書室だった。小学校の小さな図書室で本を読むことは私にもう一つの世界を与えてくれた。保健室には転んで絆創膏をもらいにいくか、掃除の当番で行くぐらいだった。保健室という場の価値、座ってゆっくりと話す価値はわかっていなかった。

中学生になると仲のよい友人と二人で毎日道の手すりに座って長いこと話をするようになった。私のかなりの部分はいまでもそのときの会話から出来ている。そのときに初めて、誰かと長い時間、座って話す価値に触れたのだと思う。しかし、社会人になると、誰かと座ってゆっくりと話す価値のことは忘れてしまった。

だから、初めて『暮らしの保健室』という言葉を聞いたとき、大事だろうなと理解はできても体感的な実感は伴わなかった。学校の保健室のような役割をもつ場所の価値、ちょっとした健康の悩みや大きな病気にかかった際の困りごとを相談できる場所の価値を、自分自身の記憶とともに話せる気がしなかった。そういうときの私はだいたい間違っている。

先日、医師の西智弘さんが、『暮らしの保健室』の活動をコアとする一般社団法人プラスケア(*1)を川崎市で立ち上げた。活動の中心を担う西さんと看護師の渡邊さんに少し丁寧にお話を伺う機会も得た。川崎市中原区で週に一回の「暮らしの保健室」を始めるという。先週の水曜には元住吉のイダカフェ(*2)で定期的な運用が始まり、翌土曜日、武蔵新城のNAYA enjoy space (*3)でも不定期ではあるがサテライトの活動が始まった。

武蔵新城のNAYA enjoy spaceは、自宅から5分ほどのところにある古い納屋をリノベーションした場所だ。先日オープンしたばかりで気になっていたので、西さんと渡邊さんへのご挨拶をかねて伺った。私はやはり間違っていた。用事で出かけるついでに挨拶に伺っただけなのに、用事にはギリギリアウトで遅刻する時間まで過ごしてしまった。

私はなにが間違っていたのだろう。何を理解していなかったのだろう。おそらく保健室の持つ価値への認識だ。そこは、まず誰かと座ってゆっくりと話ができる場所であり、その中で自分の健康への関心や意識を再認識する場所なのだろう。話をしたいと思わない人はいないのに、話をする機会は限定されている。自分や家族の健康に関心がない人はいないのに、それを少し専門的な見方もいれながら話す機会も限定されている。そのギャップを埋める場所なんだなと私は初めて実感した。あたりまえ? そう、あたりまえのことが私はわかっていなかったのだろうなと改めて思ったのだ。

自分や家族の健康のことを考えるときに我々は今どうしているのか。テレビで関連しそうな番組がやっていればそれをみる。本屋で関連の本を手にとってみたり、雑誌の特集があれば買ってみる。インターネットで検索してみる。

「誰かと話してみる」が抜けている。もちろん、私と違って友人の多い人であれば、「最近、○○が気になってさぁ」と気楽に話をするのかもしれない。でも、私はそういうタイプではない。少なくとも自己認識はそうでもない。話をすること自体は苦ではないが、話題の選択は自分の中でコントロールされている。体重について冗談めかしていうことはあっても健康の話題はそれほどつっこんではしない。「話してみる」が実際には存在しない。そこに確かにミッシングリンク(*4)、日々の生活と医療との間の埋めるべき非連続性が存在する。

たとえば先日骨折したことによるリハビリ。もちろん、病院でリハビリの専門職の人とは話をする。周囲の人とも冗談めかして話す。けれども、その冗談の中で自分がぼんやりと感じていること、専門職の人と話すには少し気が引けてしまうことは話してはいない。深い悩みではないので話さなくても困らないし、話したいと思うほどのにも自覚もできていない。そういうことが確かにある。自分自身のことなのに私はそれを認識していなかった。

「さぁ話しましょう」とお膳だてされていない空間の価値。世間話だけではない、そこにいる人が保有している知識と経験の価値。話すことから得られることの価値。そういうものの意味がわかっていなかった。

翻って考えれば、同じことはテクノロジーについてもいえる。およそエンジニアで給料を得ているものであれば誰かの「PC買おうと思っているんだけどさぁ」という相談には苦もなく乗れる。同じことなのだ。情報社会と言われて久しいのに、「情報の洪水が」と言われてすでに40年なのだ。それなのに、人による情報のスクリーニングの価値や情報の粘着性(*5)に対しての知識の流動性の増し方を私はきちんと考えていなかった。

「暮らしの保健室」には、表面的ではない、再構築すべき現代的な意味が埋め込まれている。すくなくとも私はそんな風に感じ始めた。

(*1) プラスケア

(*2) イダカフェ

(*3) NAYA enjoy space
https://www.facebook.com/NAYAenjoyspace/

(*4) ミッシングリンク
ミッシングリンク - Wikipedia

(*5) 情報の粘着性
http://mba.kobe-u.ac.jp/square/keyword/backnumber/33ogawa.htm