okadamktの日記

That's what we call a tactical retreat.

多摩川浅間神社

朝起きてベランダに出てみると空気が少しひんやりとしている。ふと思い付いて多摩川に散歩にいく。7時少し前。今日は少し長い距離を歩こう。

第三京浜が通る新多摩川大橋のところで多摩川にでる。多摩川は川崎側が右岸になる。その右岸を上流に向かって二子橋まで歩く。空気が涼やかで気持ちがいい。

二子橋を渡る。二子玉川近くの左岸は、護岸工事によってすっかり以前の面影は失われてしまった。以前はこのあたりは草生した印象が野趣があってよかったので少し残念ではある。明るい左岸を新多摩川大橋の世田谷側を目指して歩く。日差しは少しずつ強くなってくる。

そのまま新多摩川大橋から丸子橋へ。丸子橋の手前で水を買い、多摩川浅間神社で休憩する。

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多摩川浅間神社には勝海舟が字を書いた富士講の石碑があったり、シン・ゴジラで自衛隊がゴジラの首都侵略阻止の防衛ラインとする「タバ作戦」の前衛指揮所として選ばれたりしている。景色もいい。

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残念ながら今日はゴジラには会えなかった。

丸子橋を渡ってまた川崎側を戻ってくる。

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 距離にすると全体で15 kmほどになる。

 

 

運慶展

少し早起きをして運慶展へ。

その中でも特に第二章「運慶の彫刻 - その独創性」は良かった。それぞれの像の表情も、その質感も、衣装や鎧の意匠も素晴らしいが、玉眼の表現も感動的だ。地蔵菩薩の玉眼は手前でしゃがんで眺めればその玉眼の光に驚きを禁じ得ない。世親菩薩も左手前から眺めると照明の光が映り込み、わずかに涙を浮かべているようにも見える。

以下の写真は下記のWebサイトから、四天王立像、地蔵菩薩像、無着菩薩立像・世親菩薩立像。

unkei2017.jp


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で、昼過ぎ。一緒に行った子どもと上野公園の噴水のところでやっていた東京江戸ウィーク の会場で富士宮焼きそばを食べながら地酒フェアにいる。

東京江戸ウィーク

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凡俗に生きるとはそういうことだ。

valu:信頼経済という仮説

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コミュニケーションの研究者として、自分だけだとvaluのシステムの仕様が見えづらいし意見交換もできないので困っていたら、元同僚のK君が連絡をくれる。

彼も物事を分析的に考えながら"本質"はなんなのだろうと考えるタイプだ。彼はvaluについて「個人の価値を上場することの意味、このサービスでの言い方で言えば、自分が達成したいこと、応援してもらいたいこと、って何なんだろうなーと自省しました」という。同じだ。

valuの意味については、ここ数週間、結構考えたつもりだが結論がでない。valuに対して「評価経済」という言葉を使う人がいるがそれも少し違う気がした。

K君は「このシステムが個人の価値を正確に表せていない」点が気になるという。確かに株式市場のアナロジーでいえば、企業価値を提供される主観的な情報やfacebook/twitter/instagramなどのSNSなどから算出する前提基盤の弱さが気になる。それが今のところバブル(虚業的価値)にもつながっているという彼の指摘もその通りだと思う

一方で、そもそも企業や人の価値を正確に評価できるという理想状態を仮定すること自体がナイーブな議論だとも言える。デューディリジェンスを機能させられるという仮説自体が弱い。評価の対象となるものの実態は、ここでは曖昧な「印象」の話でしかない。

強いていえば、現在のバブルな状況が終端した後もシステムが生き残れば、それは評価経済と言うよりは信頼経済なのかもしれない。

「K君なら1000円を渡しておいてもきっとなにか有効に使ってくれるだろう」という信頼。しかも「知らない誰かへの信頼より、K君の方がよいとなれば売って乗り換えられる揮発性の信頼。それが今のところの私の結論かもしれない。

そんな風に話したらK君から、「信頼って価値として評価したり売買したりすることができるんですかね。AさんよりBさんの方がいいやって乗り換えられるようなものですか?」という問いが戻ってきた。
正しい指摘だと思う。保険会社やクレジット会社が測定している外形的ではないものに「信頼」という言葉を使った瞬間、評価すべきものは相手側だけではなくこちら側のさまざまな状況が含まれることになる。客観と主観を割り切って考えられなくなる。

K君自身はvaluについてもう少しウォッチを続け、売る側の「本質的価値の提供」とはなにかを考えたいという。「本質的」というのは結論が出にくいNGワードだとは思うが、K君のそういうまじめさを信頼している。もちろんそれは私の主観だ。

https://valu.is/okadamkt

第2中世への予感:熊代亨『融解するオタク・サブカル・ヤンキー ファスト風土適応論』

本書のタイトルは「融解するオタク・サブカル・ヤンキー」だが、本書の主題はそこではない。副題の「ファスト風土適応論」こそが本書のメインディッシュだ。

もちろん、かつて「オタク」「サブカル」「ヤンキー」と呼称された文化とその後の変遷、そしてそれを支えた若者の傾向が、現代(2014年)の視座からみた位置づけや分析とともに語られている。章立てでいうと「第二章」「第三章」がそれにあたる。ページ数でいえば47ページから118ページ、全体で200ページ弱の本書の4割弱に相当する。

第2章 オタクもサブカルもヤンキーもいなくなった
第3章 オタク/サブカルの年の取り方 

一方、メインディッシュといえる「ファスト風土適応論」には、「はじめに」「第一章」「第四章」「第五章」と本書の約6割があてられている。文脈の違いは目次からもうかがえる。

はじめに 「ヤンキー的な。オタク的な。サブカル的な。」
       20世紀的な幸福モデルが失効した世界で
第1章 国道沿いの小さな幸せ
第4章 国道沿いに咲くリア充の花 
第5章 追いかけてきた現実(リアル)

「はじめに」の項目でも明かなように、「オタク」「サブカル」「ヤンキー」は括弧書きの記号であり、本書が述べている主題は異なる文化的な水脈であり、本書の主題である。そしてそれは、2000年代までに日本全国に拡大した、ファスト風土文化で一律的な舗装をされたロードサイド文化圏で生きる若者の様相である。

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著者が注目するのは、奥行きやディテールを趣味生活に求めないファスト風土文化と、時間的にも金銭的にも余裕がなく、なけなしのリソースをズッ友な人間関係の再生産に費やす若者文化との関係である。その二つの様相は、手許にあるモノやコンテンツをきちんと楽しみ、それなりに満足できることを大切にし、特別な私を求めない姿勢、ファスト風土文化をごく自然に受容する文化的価値感を醸成する。

その価値感は、「オタク」「サブカル」「ヤンキー」という記号的の中にアイデンティティを見いだそうとした旧来の若者とは異なる。「特別な私」を購買する必要を感じず、ファスト風土文化の中で充足して生きる若者観は、著者オリジナルの現代社会論だ。細かな差違を必要とせず、与えられた記号の享受で十分に新鮮な満足を得られる人々の存在は発見的だ。農業的価値感とも宗教的価値感とも異なる源泉の第二中世的な価値感を予感させる。二十世紀価値感とはまったく異なる様相といえる。

著者の主張は従来の若者文化論とはかなり立ち位置が異なる。個性・主張・ユニークさといった価値のデフレ現象を記述している。「同じものが好きでいいじゃない。」、「特別である必要なんてないよ。」、「それってなんのマウンティングですか?」、「”ゆとり世代”? ”さとり世代”? オレら”おわり”世代ですから。それでいけない理由もないし。」、そんな呟きが向こう側に見え隠れする世界の記述だ。

その上で著者は「ファスト風土文化は続くのか?」と問う。ファスト風土文化は、コンビニやファストフード郊外大型モールという文化と嗜好の工業的流通を前提とする。過疎化や採算性が伸びきってしまったこれからの時代、その豊かさも担保されない。

進出から撤退、発展から衰退へのフェーズ・シフトはすでに始まっている。採算という経済合理主義は、ファスト風土文化の基盤を揺るがせる。ファスト風土文化を支えてきた店舗は消え、人々は物質的にも文化的にも空白に直面する。それにどう対処すればよいのか。著者が提示する答えのない問いである。

問いは答えを求め、空白は埋めるものを求める。何がそれを埋めるのか、まだはっきりとはみえない。融解してしまった「オタク」「サブカル」「ヤンキー」ではないことは確かだ。だからこそ、著者は本書のあとがきで「"精神の受け身をとるための方法論"のニーズは、これからもっと高まっていく」と指摘しているのだろう。

媒体としての性質

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媒体には性質があると私は思っている。

たとえばFacebookは、深い”対話"や"議論"に向いた媒体ではなく、"提示"に向いた媒体だと思う。だから私は、Facebookで他の人のタイムラインに直接コメントを書くよりも、その人の"提示"をシェアをし、自分のタイムライン上で私が考えたり感じたことを述べるようにしている。

他の人のタイムラインにコメントすることは、その人の知人たちに向けて書くことに相当する。それはかなり勇気が必要なことだ。それが特定の「主張」にもとづくものであればなおさらだと思う。私はときにそれを乱暴に感じる。

もちろん、感想やちょっとしたコメントが嬉しくないはずがない。しかし、自分のタイムライン上で「主張」を展開されると、どうしたものかなと困惑を感じる。

逆に私は、私のFacebook上の知人がそれぞれのタイムラインで書いていることを、あたかも街の音をベンチに座って聴くように、静かにみていることが多いように思う。絶対とは言い切れないが、「意見」的なものについても、概ねイイネをするかしないか。

それでも、うっかり自分が「感想」を超えた少し強い「主張」のコメントをしてしまったときは、「なんだか困惑させただろうな」と、その後、少し落ち込む。

さまざまな人たちのタイムラインには、私とは異なる「意見」や「考え方」はある。しかしそれでよいと思うし、それがよいと思う。

そんな「意見」や「考え方」は、「そういう考え方・感じ方もあるんだ」と私に新たな気づきを与えてくれる。考えるきっかけとなる。私の中で内発的な"対話"が起こる。

そんな風に、私はFacebookを、基本的に"提示"に向いた媒体だと思っている。

トリプルボトムライン

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トリプルボトムラインという言葉のことをよく考える。

トリプルボトムラインとは、企業の価値やパフォーマンスを、財務的側面だけから考えるのではなく、そこに積極的に環境的側面、社会的側面への評価を加えていこうという考えだ。1994年に英国のJohn Elkingtonが発明した。

John Elkington (business author) - Wikipedia

トリプルボトムラインという言葉の普及によって、企業は環境レポートやCSRレポートにも力をいれるようになった。評価の軸を新たに発明することには、そういう価値がある。
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2012年にブリティッシュカウンシルと"Futures: Inspiring Social Innovation"(*1)という取組みを企画した。

その"Innovation Journey"の中で、トリプルボトムラインを提唱したJohn Elkingtonにもインタビューをしている。下記の動画の3分30秒あたりから。Johnがここで語っていることは、私のお気に入りのパートだ。

インタビューではJohnに"Futures"がテーマとした"Across Sectors, Across Borders”の価値について聞いた。 Johnはこう答えている。

【セクターを越えた協働】
ビッグデータなどの比較的新しいテクノロジーの登場やサステナビリティアジェンダの台頭で、多様な企業、活動家やセクターの集合体が作られ始めている。

【システムチェンジ】
ひとつの企業、産業セクター、特定のサプライチェインが単独で解決することはできない。

【社会エンジニアリング】
多様な企業・セクターの協働を可能にするためには、社会イノベーション、社会エンジニアリングが必要となり、ある意味それがチャレンジの一部分となっている。

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DFJI(認知症フレンドリージャパン・イニシアチブ)の活動の中で、"指標"を重要視するのには意味がある。トリプルボトムラインの文脈でいえば、認知症に関する議論は社会的側面への対応であり、それは環境の話よりも定量化が難しい分野だからだ。

定量化が難しい分野だからこそ、丁寧に、そして熱心に、指標について議論する必要がある。"どの領域に対して", "どのようなタイミングで", "誰が", "何を”, "どのように", "なぜ", といった5W1Hに相当することを新たに構築していく必要がある。

DFJIの指標のプロジェクトはそういう位置づけにある。ボトムアップ型の指標をどのように生成するのかという2015年からの活動も、2017年4月に京都で行われたADI2017(第32回国際アルツハイマー協会国際会議)で、様々な指標に関する取り組みを一同に示すワークショップを企画した意味もそこにある。

ADI2017ワークショップ:『認知症にやさしい地域』を評価する – 認知症フレンドリージャパン・イニシアチブ


このような活動を、セクターや国境を越えて継続していくことで、我々は知恵を寄せていくことができ、トリプルボトムラインの社会的側面もまた評価可能となっていくのだと私は思う。

問いをより深めるために:ウォーレン・バーガー『Q思考 ― シンプルな問いで本質をつかむ思考法』

「アイディアはつねに「疑問」から生まれる」。では、その問う力について真剣に考えるとはどういうことなのか。本書は著者自身のそんな問いから生まれたものといってもよいだろう。問うという行為の必要性、価値、よい問いの例、問いを妨げるもの、よい問いに近づくための工夫。本書は、問いにまつわる著者の思考の軌跡と考えることができる。

いわゆるHow-to本とは性格が少し異なる。よい問いをつくる手順がレシピのように書かれた本ではない。本書の原題は”A More Beautiful Question”。著者は「美しい問い」をこう定義する。

私たちが物事を受け止める、あるいは考える方法変えるきっかけとなる野心的だが実践的な質問のこと。(p.13)

本書には、「美しい問い」を発見するために著者が収集したさまざまな知恵がそこかしこに書かれている。それらを実際に試し問い続けることこそ、「美しい問い」へ読者が到達するための最善の道だ。本書は、読者が自らの「美しい問い」を発見するための最初の一歩を踏み出すためのガイドブックといえる。

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本書には、著者のジャーナリストとしての洞察に満ちたフィルターを通して編纂された知恵がちりばめられてられている。その知恵は辞書のようには配置されない。森の中で新しい発見をしながら散策するように描かれている。

著者が勧める知恵は即物的というよりは内省的だ。たとえば著者は「なぜ?」という問いのために必要なこととして下記をあげる。

  • 一歩後ろに下がる
  • 他の人が何を見失っているのかに気をつける
  • 前提条件(自分たち自身を含む)を疑ってかかる。
  • 前後関係をよく見極めながら、つまり「文脈的探求」を通じて、足下の条件や問題の理解を深める。
  • いま抱いている疑問を疑う。
  • 特定の疑問や質問については自分が主導権を握る。(p.134)

そして、そのための工夫として、下記のような実践を提案する。

  • 自分がよく知っているものを見ているときに、あえてそれを新鮮に感じるような「ヴジャデ」(既視感:デジャブの逆)のトレーニングをする(p.149)
  • トヨタの方法「なぜを5回繰り返す」では、問いを「開いたり閉じたり」して質問のレベルを上げる(p.171)
  • 「もし~だったら?」という問いは、極端な「仮定」で現実をひっくり返す(p.202)
  • 「どうすれば?」という問いは、実践によって失敗をしダメージを受けながら「少しずつ」進む(p.221)
  • 「ブレイン・ストーミング」の代わりに疑問や質問を生み出す「クセスチョン・ストーミング(Qストーミング)」を行う(p.270)
  • Howに躊躇しがちな人々に対して、「どうすればできそうか?(How might we?)」と問う(p.274) 

 著者が求めているのは哲学的で答えのない質問ではない。著者が本書で対象としたいのは、行動に結びつく疑問、目に見える形で確認できる結果や変化に結びつく質問だ。著者は理論物理学者のエドワード・ウィットテンの言葉を引用する。

私はいつも、回答しがいがあるほどに難しく(そして面白く)、実際に答えられる程度にはやさしい質問を探している(p.14)

示される工夫が内省的なトーンを持っているのは、著者が問いという行為を世界を構築する手段だと考えているからだろう。だからこそ、著者は、ポジティブな問いを推奨し、下記のような言葉を引用をする。

組織は自らが発する問いに引き寄せられる (p.44)
私たちはみな、自分たちの問いかけがつくりだす世界に生きているのだ(p.45) 

 美しい問いが世界を創造する。それが著者からのメッセージなのだ。