okadamktの日記

That's what we call a tactical retreat.

再現性を求めないこと

カフェインの摂取制限を開始してから一週間がたった。3日目から4日目にかけての激しい頭痛は治まってきて、いまは軽い頭痛があるだけだ。

頭痛の原因がカフェインを止めたせいなのかはわからない。仮に頭痛の最中にカフェインを摂取して頭痛が止まったとしても、それでも因果関係はわからない。たまたまかもしれないからだ。

自分自身でこの因果関係をそれなりに納得しようとすれば、再現性を確認するしかない。コーヒーを飲み続ける、止める、飲み続ける、止める、飲み続ける、止める、を繰り返し、止めると頭痛がするのであれば、概ね因果関係が自分なりには納得できるだろう。しかし、それは頭痛は痛いのだ。自分は何がやりたいのだ。

そんな話を専修大の工学系の先生に話したら、「それは再現性の確認を諦めて、なるようになるというしかありませんねぇ~」という。おっしゃる通り。

工学系だからといって、なんでもかんでも突き詰めるわけではない。再現性の条件が担保できない実験、再現性が曖昧にしか観測できない事象は、「筋がよくない」として素直に諦めるのが正解なのだ。少なくとも自分しかサンプルの取りようがなく、仮に因果関係がある程度はっきりしても大して嬉しいことがなく、しかも痛いとなればなおさらだ。

いずれにせよ、自分にとって面白いチャレンジであった。あとはこの頭痛が少しずつ減ってくれることを望むのみ。

 

カフェインの摂取を制限しているせいなのか。。。

カフェインの摂取を制限してせいなのかどうかの因果関係は相変わらず定かではない。しかし、今朝から激しい頭痛がする。

かなり辛い。カフェインを制限した離脱症状だとすればなかなかのものだ。元々、頭痛に悩んでいた時期もあるので、頭痛の強さは笑ってマグネチュードで表現できるくらい慣れ親しんでいる。その感覚からすれば、これは酷い頭痛に分類される。顔を少し傾けたりするだけで痛い。

こんなとき、いつもだったらすぐに頭痛薬を飲む。しかし、因果関係が定かではないといえ、カフェインを制限しているせいかもしれない。仕方がないので、黙って耐えている。

こんな挑戦は年末年始でなければできない。もちろん、年末までにやっておかなければならない仕事が終わっているわけでもなく、明らかに作業効率は低下している。

他人からみれば「何やってんだか」というところだろう。

 

カフェインの摂取を制限してみている。。。

誤算だ。

カフェインの摂取を制限して2日半がたった。しかし、いま起きているこの頭痛がカフェインの摂取を制限したことによって起きているのか、それとも単なる風邪の引き始めなのか自分では区別が付かない。今朝の目覚めが良かったような気がするのも同じだ。それがたまたまなのか、それともカフェインの摂取を制限したせいなのがわからない。今日の昼間、かなり眠かったのも同様。

因果関係が自分なりに納得できなければこのカフェイン摂取の制限、何をやっているんだ?ということになる。

もうひとつの誤算は、ドトールやスターバックスでカフェインを含まない飲料がほとんどないこと。ドトールではラフランスジュースを、スターバックスでは水を買い、それだけでは持ち込みのように見えるのでコーヒーカップを借りて飲んだ。

なぜかもやもやとした気持ちになる。それも頭痛の原因かもしれない。

カフェインの摂取を制限してみること

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煙草を止めたのは福岡に住んでいた頃だから、たぶん1999年か2000年頃だと思う。止めた理由は単純で、煙草を吸うと胸が苦しくなったからだ。身体が「煙草は止めた方がいいね」と言っていると思った。

それでも、煙草を止めるにあたって禁断症状のような状態にはなった。喫煙室に副流煙を吸いに行ったり、煙草を吸って他人の口元をじっと見つめている自分を発見したりした。ただ煙草を止めるとか禁煙とかいうのもシャクなので休煙と称した。しばらくは年に一度か二度、数本を吸った。そのとき買った煙草もライターもその場で捨てていた。最近は年に一度か二度ということもなくなってしまった。

煙草以外で禁断症状を感じるのはポテトチップや柿の種などの「塩×油」の組合せだろうか。実感でいえば煙草と同等かそれ以上の禁断症状を感じる。煙草は禁断症状というよりは習慣で吸っていたような気がする。脳内の物質による作用という風には感じていなかった。ポテトチップや柿の種の方がその作用は強いように思う。

カフェインはどうか。コーヒーはかなり飲む。コーヒーが飲めない朝は落ち着かない。そんなときはへルシアを飲む。へルシアはカフェインが多いからだ。コーヒーを飲んでいる量を考えるとカフェイン中毒といってもおかしくない。

昨日、電車に乗りながら、そんなことを思った。自分はカフェイン中毒なのか。カフェイン中毒だとしたらどんなタイプの中毒なのか。そこで昨日の夕方からコーヒーの代わりに白湯を飲んでいる。

いまのところは何も起きていない。

わからないことを楽しむ:圏論の歩き方委員会 『圏論の歩き方』

旅行をしたいと思い付いたとき「地球の歩き方」を手に取る人は多いだろう。圏論の世界に出かけてみたいと思ったとき、だから「圏論の歩き方」を手に取ることは自然なことだ。本書はそのガイドブックなのだから。

この本には独特の楽しみ方がひとつある。さっぱりわからないことを楽しんでみるという楽しみ方だ。実際、私には本書に書かれている内容の98%がわからなかった。もちろん、わからなければよいというものではない。この楽しみ方、それなりに練習と修行が必要となる。

まず、人生において「それほどにわからない」ということはなかなかない。その「さっぱりわからないぞ」という名状しがたい人生の状態を、「これはなんともいえない新鮮な感覚だ」と味わってしまう気概と余裕は必要となる。

わからないこと自体は問題ではない。人類の99.9%はおそらくこのガイドブックの内容はさっぱりわからないだろう。だから、わからないことは罪ではない。ましてや読者のせいでもない。もちろん著者のせいでもない。

「誰も悪くはなくても、悲しいことはいつもある」と中島みゆきも唄っている。「願い事は叶わなかったり叶いすぎたり」もする。そしてそういうこととはまったく独立に、本書において「わからないこと」は、悲しみではなく味わうべき楽しみなのだ。確かに存在するであろうかすかな希望をそこに見いだせるかどうかだ。

例を示そう。

読むという行為は不思議な行為だ。たとえば「○は△だから□だ」という文があるとしよう。この文には意味があるようでない。○も△も□も空白だからだ。それなのに、なぜかわからない気持ちはあまり生まれない。人は○や△や□を自分なりの言葉で補間するからだ。

では、こうであればどうだろう。本書の一部を少しアレンジしてみた文だ。

同型なホモロジーを持つ複体は同じ性質を持ちますから、もし擬同型が複体の同型射である圏ができれば、複体のホモロジーを展開する舞台として適したものになります。擬同型の逆射を加えた圏が導来圏です。導来圏は三角圏でもあります

私はただただ目眩く思いを感じるのみだ。○や△や□という空だったものが、生き生きと訳のわからない力を持って迫ってくる。

この感覚は非常に上質で前衛的なSFを読んだときの気持ちに似ている。何が起こっているのか、そこはどこなのか、なぜそうなのか、まったく脈絡が掴めない。しかしなぜか読むことを止めることができない。そんな感覚だ。言葉は見えるが意味としてのつながりが失われる。

小学生でも知っている”三角”という言葉に、限られた地域や範囲を示す"圏"が組み合わされた世界。そこでは"複体"というものの"擬同型"が存在するらしい。しかし、そもそも複体とは何者なのか。擬同型とは何が擬で何が同なのか。妄想はふくらむ。

あえて超訳すればこうなるのかもしれない。法的には推定無罪を申告する。

 似た性質を持つのだから、こうして生まれたその場所は、舞台としてもっとも適した場所になるはずだ。

なぜか希望が湧いてくる。まるで新天地に降り立ったかのように希望に溢れた舞台がそこにある(ような気がしてくる)。

 本書にはこんな楽しみかたもある。

多摩川浅間神社

朝起きてベランダに出てみると空気が少しひんやりとしている。ふと思い付いて多摩川に散歩にいく。7時少し前。今日は少し長い距離を歩こう。

第三京浜が通る新多摩川大橋のところで多摩川にでる。多摩川は川崎側が右岸になる。その右岸を上流に向かって二子橋まで歩く。空気が涼やかで気持ちがいい。

二子橋を渡る。二子玉川近くの左岸は、護岸工事によってすっかり以前の面影は失われてしまった。以前はこのあたりは草生した印象が野趣があってよかったので少し残念ではある。明るい左岸を新多摩川大橋の世田谷側を目指して歩く。日差しは少しずつ強くなってくる。

そのまま新多摩川大橋から丸子橋へ。丸子橋の手前で水を買い、多摩川浅間神社で休憩する。

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多摩川浅間神社には勝海舟が字を書いた富士講の石碑があったり、シン・ゴジラで自衛隊がゴジラの首都侵略阻止の防衛ラインとする「タバ作戦」の前衛指揮所として選ばれたりしている。景色もいい。

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残念ながら今日はゴジラには会えなかった。

丸子橋を渡ってまた川崎側を戻ってくる。

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 距離にすると全体で15 kmほどになる。

 

 

運慶展

少し早起きをして運慶展へ。

その中でも特に第二章「運慶の彫刻 - その独創性」は良かった。それぞれの像の表情も、その質感も、衣装や鎧の意匠も素晴らしいが、玉眼の表現も感動的だ。地蔵菩薩の玉眼は手前でしゃがんで眺めればその玉眼の光に驚きを禁じ得ない。世親菩薩も左手前から眺めると照明の光が映り込み、わずかに涙を浮かべているようにも見える。

以下の写真は下記のWebサイトから、四天王立像、地蔵菩薩像、無着菩薩立像・世親菩薩立像。

unkei2017.jp


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で、昼過ぎ。一緒に行った子どもと上野公園の噴水のところでやっていた東京江戸ウィーク の会場で富士宮焼きそばを食べながら地酒フェアにいる。

東京江戸ウィーク

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凡俗に生きるとはそういうことだ。