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okadamktの日記

That's what we call a tactical retreat.

「私が私であるとは」という問い: リサ・ジェノヴァ 『静かなアリス』

著者は、神経科学の専門家であり、米国アルツハイマー協会のコラムニストでもある。本書は、認知症当事者の人々と著者との多くの対話を経て生まれたという。だからなのだろう。本書は、フィクションではあるが、認知症と診断された人の感じるとまどい・不安・混乱・家族や社会との関係が、リアリティをもって迫ってくる。

本書は、ハーバードの大学教授であるアリスの視点から一人称で描かれている。物語は時間軸に沿って進み、描かれている病状の進行は早い。

認知症になんらかの関わりのある人にとって、読むのが辛くないと言えば嘘になるだろう。救いは、辛さにうちひしがれるばかりの前半に対して、後半部分では、娘との和解や新しい命による喜びなどがも描かれている点かもしれない。

本書は諸刃の剣だ。本書で描かれる認知症の当事者からの視点は、本人の気持ちをないがしろにしがちな家族や社会の言葉や態度を鋭く読者に突きつけてくる。我々の社会がこの病気を十分に受け入れ切れていないことを厳しく告発する。社会的な意義も価値も高い。その一方で、もしこの本を表面的に読めば、認知症に対する負の感情が増幅され、社会は著者や本書の主人公が望んだ方向とは真逆の方向へと向かってしまう可能性もある。痛みを伝えることの難しさがそこにある。

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厚生労働省は、2025年、日本国内の65歳以上の高齢者のうち、認知症の人の数は700万人を越える可能性を示す推定値を発表した。前期認知障害を持つ人まで含めれば、おそらくその人数は1200万人規模になるのではないだろうか。認知症は極めて今日的な意味を持つ日本社会の課題である。我々はその事実を十分にはまだ受け入れていない。認知症とともに生きることは、どこかの誰かの物語ではなく、この本を手に取るすべての人にとって、「私」の物語なのだといえる。

一方で、認知症は、特定の疾患をあらわす言葉ではない。本書で描かれた遺伝的な要因による若年性のアルツハイマー認知症もあれば、その他の疾患によるものもある。症状も様々であり、本人が感じる困惑も様々である。本書が、記述として正確であればあるほど、リアリティがあればあるほど、それもまた部分にすぎないという事実が見えにくくなってしまう。そこに本書の難しさがある。純粋な小説であれば、一般化のリスクを怖れる必要はない。それはひとつの物語なのだから。本書もまたそう受け止めて読むべきものだ。これは、ひとりの主人公、アリスの物語なのだ。

本書のもっとも重要なメッセージは、その表題にある。邦題は「静かなアリス」だが、原題は”Still Alice”。本書は、冒頭から終わりまでアリスがアリスでありつづけていることを記した小説なのだ。そしてこの”Still Alice”という原題は、認知症を社会が受け入れる上でもっとも重要なメッセージでもある。病気である限り、辛いことは無限にあるだろう。しかし、アリスがアリスであることに変わりはない。本書をもし「私」の物語として読むならば、「私」がいまも「私」であることを描いた小説だといえる。

私が私であるとはどういうことなのか?その問いは、認知症のコンテクストを外しても、ある種の「答えのない質問」だ。しかし、感情的にはとてもシンプルだ。私は私であり、それを自然な状態として感じている。その感情はごく普通の当たり前の感覚といえる。それを問われてしまうこと自体が、そしてそのことを不安に感じること自体が心の負担だ。


10年後、日本の65歳以上の高齢者のうち認知症の人の数が700万人を越えるという。高齢者の5人にひとりという割合だ。我々は社会として、「私」の物語のあり方をまだ十分には捉えられていないのに。