okadamktの日記

That's what we call a tactical retreat.

語義の表現形

新明解国語辞典(第4版)で「さびしい」の語義と用例を読んでいて気がついたことがある。

さびしい【寂しい】(形)
①自分と心の通いあうものが無くて、満足出来ない状態だ。
  「-生活」
②社会から隔絶されたような状態で、心細くなる感じだ。
  「-山道」 
③有ればいいと思うものが無くて、満ち足りない感じだ。
  「ふところが-」「口が-」

形容詞の定義を「~状態だ」「~感じだ」で終わらせるなんて、形容詞とはそういうものだったのかという発見がある。寂しいという気持ちにさえ、そこに救いがみいだされる。もちろん、新解さんの表現形は語意によって揺らいだりはしない。

たのしい【楽しい】(形)
その状態を積極的に受け入れる気持ちが強く、出来ることならそれを持続したい感じだ。

もちろん、語尾は微妙に変化する。例外もある。

しらじらしい【白々しい】(形)
①知っていてしらないふりをする様子だ。
②その事が自分の生活や心情にはぴったりと来なくて、なんとなく空虚な感じを与える様子だ。

しろい【白い】(形)
白の色だ。

新解さんには本当に励まされる。言葉には語義の中に深く沈みこんでいく方法と、高いところから俯瞰する方法があるのかもしれない。

寂しさの底抜けて降るみぞれかな 内藤丈草  

淋しさに花咲きぬめり山桜 与謝蕪村 

前者は深化、後者は俯瞰。新解さんはそんなことを考えさせてくれる。

予感

「どうかご自愛ください」

「お体を大切にしてくださいね」と同じ意味だが優しい言葉だ。相手の周囲に対する細やかな気持ちをおもんぱかり、寄り添う心遣い。「自愛」という字義の通り、本来、自分を大切にすることはとても重要なことだし、丁寧な生き方だといえる。

吉野弘の詩"奈々子に"に、こんな一節がある。

ひとが
ひとでなくなるのは
自分を愛することをやめるときだ。

自分を愛することをやめるとき
ひとは
他人を愛することをやめ
世界を見失ってしまう。


自分があるとき
他人があり
世界がある。

 丁寧さの反語は乱暴。乱暴さの同義語は淋しさ。吉野弘の"日々を慰安が"の一節も反語として悲しい。

日々を慰安が
吹き荒れる。

慰安が
さみしい心の人に吹く。
さみしい心の人が枯れる。

明るい
機知に富んだ
クイズを
さびしい心の人が作る。

明るい
機知に富んだ
クイズを
さみしい心の人が解く。

 「さみしい」は「さびしい」と同意で、主に会話に使われるいくぶん古風な和語。「さびしい」がくだけた会話から文章まで幅広く使われる日常の基本的な和語であるのに対し、「さみしい」は人通りの少ない様子などをあらわすよりは孤独感について使われる傾向があるという。その違いは「さびしい」の用法のひとつの対義語が「にぎやか」であることにも由来する。いずれにせよ"日々を慰安が"で描かれる情景は丁寧さや誠実さとは異質なものだ。

東京や神奈川の街に雪はあまり降らない。吉野弘の"雪の日に”は誠実さを失うまいとする哀しい風景の予感だ。

-誠実に
そんなねがいを
どこから手に入れた。

それも すでに
欺くことでしかないのに。
それが不意にわかってしまった雪の
かなしみの上に 新しい雪が ひたひたと
かさなっている。

雪は 一度 世界を包んでしまうと
そのあと 限りなく降りつづけなければならない。
純白をあとからあとからかさねてゆかないと
雪のよごれをかくすことが出来ないのだ。

誠実が みずからを
どうしたら欺かないでいることが出来るか
それが もはや
みずからの手に負えなくなってしまったかのように
雪は今日も降っている。

雪の上に雪が
その上から雪が
たとえようのない重さで
ひたひたと かさねられてゆく。
かさなってゆく。

三篇の詩は、吉野弘:第二詩集「幻・方法」から。出版は1959年。今から50年以上前の予感だ。自分に対する備忘として。

物語について

ル=グウィン「ギフト」(Gifts )の一節。

その物語はぼくの中に生きている。それがぼくの知る限り、死を出し抜く一番いい方法だ。死は自分が物語を終わらせることができると思っている。物語が自分―つまり死―の中で終わっても、物語が死とともに終わるのではないことを理解できない。(p18)

痺れる。

人はもしかすると「そんな考えはロマンチックではあるけれど、子供じみた考え」と言うかもしれない。そしてそれはある意味正しい。しかし、そんな幻想を持てることも、人というもののあり方や強さ、そして弱さのあらわれかもしれない。

いまやロマンチックであることすら、マニュアル化され、そして過剰なインフレ状態だ。

もっと静かにロマンチックでありたい。吉野弘の詩のように。

生命は
自分自身だけでは完結できないように
つくられているらしい
花も
めしべとおしべが揃っているだけでは
不十分で
虫や風が訪れて
めしべとおしべを仲立ちする
生命は
その中に欠如を抱き
それを他者から満たしてもらうのだ
世界は多分、他者の総和
しかし
互いに欠如を満たすなどとは
知りもせず
知らされもせず
ばらまかれている者同士
無関心でいられる間柄
ときに
うとましく思うことさえも許されている間柄
そのように
世界がゆるやかに構成されているのは
なぜ?

花がさいている
すぐ近くまで
虻の姿をした他者が
光をまとって飛んできている

私も あるとき
誰かのための虻だったろう

あなたも あるとき
私のための風だったかもしれない

(吉野弘、「現代詩入門」、生命(pp.38-40)

そう「世界は多分、他者の総和」、そして私もあなたも「誰かのための虻や風」かもしれない。

 

トカトントン

I先生と車の中でどうでもいい話ばかりしていたら,同乗者のTさんから「二人の話はあんまりどうでもいいから,どうでもいい倶楽部ですね」と認定されてしまう。

そのまま,どうでもいい倶楽部メンバーとして話を続けていたら、「トカトントン」の話になる。なんでそうなったのかは、どうでもいい倶楽部の会話だったので、思い出せない。

「トカトントン」を読んでいなかったし,短くてすぐに読めそうだったので、へ~と思って、青空文庫でダウンロードする。

太宰治「トカトントン」。

読み終わったのはいいが、最後の「ゲヘナ」がわからない。どうでもいい倶楽部のI先生に聞くと、「地獄じゃね」との返事。どうでもいい倶楽部なのに教養あるなぁと感心する。

「それにしても、トカトントン、トカトントン、トカトントントンと連続してなったらお囃子みたいだね」と、引き続き、どうでもいい話をする。

(2013年9月18日, mixi 改)

PS 実際には「ゲヘナ」とは地獄ではなく「永遠の滅びの象徴」とのこと。

フローとしての日記

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子どもの頃、日記を書いていたことがある。大学の頃もときどき思い出したように書いていた。mixiでの日記は2005年11月から2013年12月まで約8年ほど書いた。

mixiでの日記を始める前は、写真日記を付けていた。気が向いたときに撮った写真を家のプリンターで小さく印刷して、それをノートに貼り絵日記のようにしていた。子どもが小さかった頃だ。時々、ドロシーがその日記にときどきなにかよくわからない感想を書き込んでいた。

日記といっても毎日は書かない。それでいいのだということを高校生の頃に思いついた。その日から日記は自分に対する義務ではなくなった。

日記には楽しいことだけを書いてもよいのだということもその頃に思いついた。ブルーノ・ワルターの「主題と変奏」(*1)という回想録を読んでいたときのことだ。ワルターは回想録の中で、「若い頃は日記に毎日の反省を書いていたが、それは誰にとっても、特に自分にとって、 まったく益がないことに気づいた」という主旨のことを書いていた。私は「なるほど」と思い、以来、日記に反省のようなものを書くことを止めた。

気楽なことしか書かなくなって解ったことは、それでまったく問題がないということだ。当たり前のことだが大切だ。それまでの私は子どもながらに『日記』に対して先入観を持ち、『日記』を難しく考えていたのだと思う。自分で自分に縛られていたということになる。

最近思うことは、日記とはフローだなということだ。

日記は保管されるべき記録(ストック)ではなく、毎日の生活の断面をそっと切り取っただけのもの。方丈記を持ち出すまでもなく、我々の生活は流れている。断面のようで断面ではない。それが私の考える日記がフローだということだ。

実際、mixiの日記を改めて眺めてみても、その頃の生活のフローとしての自分がそこにはいる、記録としての意味はほとんどない。そもそも改めて読み直してみてもそれを書いた理由が思い出せない。安部公房の第四間氷期の感想? 読んだことすら忘れてしまっている。

それで別に構わない。改めて読めば、「そんなこともあったかな」という程度のものだ。ただ、日記を書くことが好きかと聞かれれば好きだとは言える。それだけのことだ。

(*1)ブルーノ・ワルターの「主題と変奏」

釣りバカ日誌 新入社員 浜崎伝助

釣りバカ日誌 新入社員 浜崎伝助

釣りバカ日誌~新入社員 浜崎伝助~」を観る。楽しかった。なんなんだろうこの罪の無さは。濱田岳演じる浜崎伝助のかろみは。

まるでイタリア歌曲のようだ。「お父さん、私あの人と結婚できないなら、このベッキオ橋から飛びこんでしまうわ」「おお、娘よ、なにをいうのだ」ドタバタ・ドタバタ。「みろよ、青い空、白い雲、そのうちなんとかなるだろう」 そんな風に伝助は歌っている。

人当たりはよいが、注目を浴びたいという気持ちはなく、他人の評価も気にしていない。釣りに関してはきちんと合理的であり、理屈ももっているが拘泥せず、かといって職人的気質の中に埋没するわけでもない。

当たり前だが彼は「釣りバカ・ファースト」の人だ。そして人は通常「釣りバカ・ファースト」では生きられない。

そのかろみの構造は、新入社員浜崎伝助がファンタージのセカイの登場人物であることに起因する。ファンタジーだから、この世のわれわれの拘泥に伴う欠点がない。そこに「あんな風に生きていけたら少し楽かもしれない」と共感されうる人物造形の原型がある。

だから新入社員浜崎伝助はキャンベルのいうところの「英雄」なのだ。だから浜ちゃんセカイにも(1)冒険、(2)勝利、(3)帰還の構造がある。スターウォーズと同様の物語世界が釣りバカ日誌という独特の世界感の中で展開している。

世間的な知恵を「まぁ、すれ違うこともあるけれど、なんとかやっていきましょう」という非常に現実的なアプローチだとしよう。一方、ファンタジーは「現実世界は現実世界として、でもそうでないオルタナティブを提示する」というアプローチだ。寅さんしかり、ドストエフスキーの「白痴」のムイシュキン公爵しかり。

世間的な知恵はある種の自己防衛によっても強化される。それは自らを守る防壁になると同時に、時として自らの自由を奪う。だからこそ、ときどき、そんな防壁のない世界に憧れてしまう。どうでもいいように思える新入社員浜崎伝助の世界に。

 

失われし、げげーべん

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何かを取りにベランダに出たのか、突然、ドロシーが、「げっ、げげーべん。結構寒いです。」といいながら、部屋に入ってきた。

笑ったら、「えっ、げげーべんって言わない?」とドロシー。君さぁ~、最近の人は、あまり言わないと思うよ。

この話を別の場所に書いたら、みんな、「そんな言葉は聞いたこともない」という。おかしいなぁ。以前は言ったよ。「げげーべん」とか「何をタクラマカン砂漠」とか。英語で言えば、"See you later, alligator"とか。

(2006年2月19日, mixi 改)