okadamktの日記

That's what we call a tactical retreat.

ヴォイス

ル=グウィン、西のはての年代記 II、「ヴォイス」(Voices)。西のはての南部に位置する海港都市アンサルに暮らすメマー・ガルヴァという少女の物語。そしてそれは「問い」と「答え」の意味に関する物語でもある。

「ヴォイス」の中で問いと答えの関係はかく語られる。

かの優れた読み手、ダノ・ガルヴァはこう言った。『わたしたちの求めるのは真の答えではない。我々の探す迷い子の羊は真の問いだ。羊の体のあとにしっぽがついてくるように、真の問いには答えがついてくる』(p.177)

しかも得られる答え(お告げ)は隠喩的であり、それが具体的にどのようなことを意味しているのかはかならずしも明かではない。主人公のメマーは思う。

お告げは命令を下すのではない。その逆で、考えるように促すのだ。謎に対して思考を寄せることを、わたしたちに求めるのだ。考えて行動した結果が思わしくなくとも、それがわたしたちにできる最善のことなのだ。(p.191)

メマーの師でもあるガルヴァ家の当主である道の長はいう。

「読むことは、かつてわたしたちみんなが共有していた能力だった」
「もしかすると今こそ、わたしたちみんなが、それを学びなおすときなのかもしれない。いずれにせよ、与えられた答えが理解できるまでは、新しい問いを発してもむだだ」(p. 186)

それはなぜか。

はかりしれない謎にたいして理にかなった思考を寄せる(p. 195)

それこそがもっとも大切だからなのだ。

ちはやぶる

「恋す蝶」という蝶はどんな蝶なのか、「ゆらの塔」というふしぎな塔はどこにあるのか

子どもの頃に感じた百人一首の思い出を歌人佐々木幸綱はそんな風に語っている(*1)。落語の「千早振る」(*2)に思わず共感してしまうのは、誰もが同じような気持ちになったからだろう。

もちろん、百人一首に歌われた内容の背景や意味をもう少しきちんとわかりたいと思う。アニメや映画にもなった「ちはやふる」の登場人物の一人、大江奏のいう通りだ。それに、その方がたぶん人生は豊かになる。私にとって詩人吉原幸子百人一首の現代語訳はその入り口を開いてくれる。

たとえば「ちはやぶる」。歌の詞書「二条の后の春宮の御息所と申しける時に、御屏風に竜田川に紅葉流れたるかたを描けりけるを題にて詠める」を受け、まるで幻想冒険小説の一場面だ。

ちはやぶる神代もきかず龍田川
からくれなゐに水くくるとは

神代のむかしには
さまざまなふしぎがあったとか
島が動いたり
八いろの雲がたなびいたり
それでも こんな話は絶えて聞きませぬ
まして人の世
このように珍しい景色があろうとは-


燃えるように色づいたもみじが
竜田川の川面にびっしりと浮かび
まるで 韓国(からくに)の紅で
澄んだ水を絞り染めにでもしたように
血のように 炎のように
重なり合って流れてゆく

(美しい屏風の主よ
 過ぎた日々 あなたに燃やした
 わたしの 胸の火のように)

好きな歌は年齢とともに変わる。寂しいという感情や人以外の者を友としたいという思いも募る。

世の中よ道こそなけれ思ひ入る
山の奥にも鹿ぞ鳴くなる

そうか
逃れる道は ありはしないのか


憂き世をいとう心にせめられ
思い悩み 思いつめて
この山奥へ 分け入ってきたが
ここにさえ 悟りすました静けさはなく
おお あんなにも もの悲しげに
腸をしぼるように
雌を恋うてか 鳴いている鹿の声
まるで おのが悲鳴をきくようだ


煩悩は 地の果てまでも迫ってくる
山を下りて
現し世を引き受けるしかないのだ・・・ 

もろともにあはれと思へ山桜
花よりほかに知る人もなし

吉野山 大峰の奥深く
思いもかけず咲いていた一本(ひともと)の山桜よ

私が おまえをなつかしむように
おまえも わたしをなつかしんでおくれ

里では もう花も散っているのに
春におくれて ひっそりと咲く
わたしたちは 似た者とうしだ

世を忘れ 世に忘れられて
きびしい修行の道にはげむわたしの
それでも 枝いっぱいに生(いのち)を生きる
この心を知ってくれるものは
おまえしかいないのだから 桜よ 

 ブナの林でも同じような気持ちになる。

(*1) 佐々木幸綱編著「百人一首をおぼえよう 口訳詩で味わう和歌の世界」まえがき
(*2) 落語「千早振る」 wikipedia

語義の表現形

新明解国語辞典(第4版)で「さびしい」の語義と用例を読んでいて気がついたことがある。

さびしい【寂しい】(形)
①自分と心の通いあうものが無くて、満足出来ない状態だ。
  「-生活」
②社会から隔絶されたような状態で、心細くなる感じだ。
  「-山道」 
③有ればいいと思うものが無くて、満ち足りない感じだ。
  「ふところが-」「口が-」

形容詞の定義を「~状態だ」「~感じだ」で終わらせるなんて、形容詞とはそういうものだったのかという発見がある。寂しいという気持ちにさえ、そこに救いがみいだされる。もちろん、新解さんの表現形は語意によって揺らいだりはしない。

たのしい【楽しい】(形)
その状態を積極的に受け入れる気持ちが強く、出来ることならそれを持続したい感じだ。

もちろん、語尾は微妙に変化する。例外もある。

しらじらしい【白々しい】(形)
①知っていてしらないふりをする様子だ。
②その事が自分の生活や心情にはぴったりと来なくて、なんとなく空虚な感じを与える様子だ。

しろい【白い】(形)
白の色だ。

新解さんには本当に励まされる。言葉には語義の中に深く沈みこんでいく方法と、高いところから俯瞰する方法があるのかもしれない。

寂しさの底抜けて降るみぞれかな 内藤丈草  

淋しさに花咲きぬめり山桜 与謝蕪村 

前者は深化、後者は俯瞰。新解さんはそんなことを考えさせてくれる。

予感

「どうかご自愛ください」

「お体を大切にしてくださいね」と同じ意味だが優しい言葉だ。相手の周囲に対する細やかな気持ちをおもんぱかり、寄り添う心遣い。「自愛」という字義の通り、本来、自分を大切にすることはとても重要なことだし、丁寧な生き方だといえる。

吉野弘の詩"奈々子に"に、こんな一節がある。

ひとが
ひとでなくなるのは
自分を愛することをやめるときだ。

自分を愛することをやめるとき
ひとは
他人を愛することをやめ
世界を見失ってしまう。


自分があるとき
他人があり
世界がある。

 丁寧さの反語は乱暴。乱暴さの同義語は淋しさ。吉野弘の"日々を慰安が"の一節も反語として悲しい。

日々を慰安が
吹き荒れる。

慰安が
さみしい心の人に吹く。
さみしい心の人が枯れる。

明るい
機知に富んだ
クイズを
さびしい心の人が作る。

明るい
機知に富んだ
クイズを
さみしい心の人が解く。

 「さみしい」は「さびしい」と同意で、主に会話に使われるいくぶん古風な和語。「さびしい」がくだけた会話から文章まで幅広く使われる日常の基本的な和語であるのに対し、「さみしい」は人通りの少ない様子などをあらわすよりは孤独感について使われる傾向があるという。その違いは「さびしい」の用法のひとつの対義語が「にぎやか」であることにも由来する。いずれにせよ"日々を慰安が"で描かれる情景は丁寧さや誠実さとは異質なものだ。

東京や神奈川の街に雪はあまり降らない。吉野弘の"雪の日に”は誠実さを失うまいとする哀しい風景の予感だ。

-誠実に
そんなねがいを
どこから手に入れた。

それも すでに
欺くことでしかないのに。
それが不意にわかってしまった雪の
かなしみの上に 新しい雪が ひたひたと
かさなっている。

雪は 一度 世界を包んでしまうと
そのあと 限りなく降りつづけなければならない。
純白をあとからあとからかさねてゆかないと
雪のよごれをかくすことが出来ないのだ。

誠実が みずからを
どうしたら欺かないでいることが出来るか
それが もはや
みずからの手に負えなくなってしまったかのように
雪は今日も降っている。

雪の上に雪が
その上から雪が
たとえようのない重さで
ひたひたと かさねられてゆく。
かさなってゆく。

三篇の詩は、吉野弘:第二詩集「幻・方法」から。出版は1959年。今から50年以上前の予感だ。自分に対する備忘として。

物語について

ル=グウィン「ギフト」(Gifts )の一節。

その物語はぼくの中に生きている。それがぼくの知る限り、死を出し抜く一番いい方法だ。死は自分が物語を終わらせることができると思っている。物語が自分―つまり死―の中で終わっても、物語が死とともに終わるのではないことを理解できない。(p18)

痺れる。

人はもしかすると「そんな考えはロマンチックではあるけれど、子供じみた考え」と言うかもしれない。そしてそれはある意味正しい。しかし、そんな幻想を持てることも、人というもののあり方や強さ、そして弱さのあらわれかもしれない。

いまやロマンチックであることすら、マニュアル化され、そして過剰なインフレ状態だ。

もっと静かにロマンチックでありたい。吉野弘の詩のように。

生命は
自分自身だけでは完結できないように
つくられているらしい
花も
めしべとおしべが揃っているだけでは
不十分で
虫や風が訪れて
めしべとおしべを仲立ちする
生命は
その中に欠如を抱き
それを他者から満たしてもらうのだ
世界は多分、他者の総和
しかし
互いに欠如を満たすなどとは
知りもせず
知らされもせず
ばらまかれている者同士
無関心でいられる間柄
ときに
うとましく思うことさえも許されている間柄
そのように
世界がゆるやかに構成されているのは
なぜ?

花がさいている
すぐ近くまで
虻の姿をした他者が
光をまとって飛んできている

私も あるとき
誰かのための虻だったろう

あなたも あるとき
私のための風だったかもしれない

(吉野弘、「現代詩入門」、生命(pp.38-40)

そう「世界は多分、他者の総和」、そして私もあなたも「誰かのための虻や風」かもしれない。

 

きっかけ

たぶん、小学校の3年生ぐらいまで、私は本を読むことがない子どもだった。仲のよかったN君はドリトル先生の全巻を読んでいたりしたけれど、私はそれをどうとも思っていなかったし、すごいなとも思っていなかった。単純に、本を読むことに興味がなかった。

実際はそもそも本を読むということが上手くできなかったのだと思う。本を読むということがどういうことなのかもわかっていなかった。運動も得意ではなかったし、学校もよく休んでいた。

本を読むようになったのは、母親が「魔ほうのボール」という本を買ってきてくれたことだった。なぜその本だったのかはわからない。覚えているのは、私は学校を休んでいて、「休んでいるならこの本でも読んだら」と買ってきてくれたということぐらいだ。

「魔ほうのボール」は面白かった。ボールのような形状をした宇宙人と少年が友だちになる話だったような気がする。ちょっと自信のない主人公の少年が、魔ほうのボールに助けられながら、少しずつ自信をつけていくような話だった気がする。しかし、記憶はおぼろげだ。いずれにせよ、このとき初めて、「本って面白いんだな」と私は思った。

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その後、同じシリーズの「わんぱくロボット」という本を買ってもらった。こちらはあらすじを少しも覚えていない。ただ、すごく面白かったという記憶だけけが残っている。

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この2冊が私が本を読むようになったきっかけだ。それから私は本をよく読む子になった。運動は不得意のままだったし、学校もやっぱりしばしば休んでいたが、本は友だちになった。

検索してみると、最初の2冊はどちらも偕成社の『世界のこどもエスエフ』の本だということがわかる。エスエフが私の世界を変えた。それは確かなことだ。

http://www.garamon.jp.org/archive/6804

答えのない質問

レナード・バーンスタインの「答えのない質問」。副題は「1973年ハーヴァード大学詩学講座」。高校生の頃に本の方を古本屋で買った。それなりの値段がしていたような気がする。少し背伸びをしながらわくわくして読んだ。

目次は、1.音楽的音韻論、2.音楽的統語論、3.音楽的意味論、4.曖昧さの喜びと危険、5.20世紀の危機、6.大地の詩と続く。

第3章の音楽的意味論 IIでは、「ベートーヴェンの<<田園>>交響曲を、外部的で非音楽的なあらゆる隠喩から分離させて、純粋音楽としてきくことが可能だろうか?」という問いが投げかけられる。第4章の曖昧さのよろこびと危険では、ベートーヴェンシューマンショパンベルリオーズワーグナー、そしてドビュッシー<<牧神の午後への前奏曲>>へと続く曖昧さの量的変化の系譜が語られる。

持っている本の中でも、好きで大事にしているものの筆頭だ。その内容の理屈っぽさが好きだし、そもそもタイトルがいい。"The Unanswerd Question"。20世紀を象徴するタイトルだと思う。ある意味、この言葉に心が囚われてしまったといっても過言ではない。この本によって、自分は19世紀から20世紀にかけて、そして20世紀から21世紀にかけてと100年のスケールで考える視座を借りることができたのかもしれない。

講義録を録音したレコードが欲しかったが、当時、それは自分では手に入れることができなかった。音楽の講義録なのだ。本来は読むものではなく聴くものなのだ。ああ、レコードが欲しいなぁと思っていた。

それから25年以上たち、録音がDVDとして発売されたことを知ったときは本当に嬉しかった。モノとして手にしたことが嬉しいと、普段はほとんど感じることがないのに、このDVDだけは別だった。人生の中で、モノとして手に入れて嬉しかったものはこれくらいなのかもしれないなと思う。