okadamktの日記

That's what we call a tactical retreat.

イノベーションにおける物語の書: 木川眞 『未来の市場を創り出す』



ソニーを含めた「もの作り日本」の凋落とは対照的に、小倉昌男氏が1976年に始めた小口貨物の特急宅配システム「宅急便」は、人々の生活の利便性を劇的に変化させた。本書は、2005年に銀行業界からヤマト運輸に転じ、2011年にヤマトホールディングス社長に就任した木川眞氏が日経ビジネスの連載「経営教室」に寄せた内容を書籍化したものである。

本書を読めば、クロネコヤマトが真に日本が世界に誇るべきイノベーションカンパニーであることが実感できる。クロネコヤマトは、「ゴルフ宅急便」、「クール宅急便」、「タイムサービス」、「時間帯お届けサービス」、「ドライバーダイレクト」など、数々のイノベーティブなサービスを創り出してきたシリアルイノベーターだ。しかも、「宅急便」というサービスは、他の業界にも大きなビジネスチャンスをもたらしている。その事実に読者は改めて驚嘆することだろう。

木川氏は、クロネコヤマトのその一連の取り組みを、「需要創出サイクル」として述べている。「オンリーワンの創出」に続き、「ライバル参入を促し、市場を拡げ」、その上で「差別化を図り圧倒的なナンバーワンとなり」、「デファクトスタンダードを取る」。そしてその拡大市場に次の「オンリーワンを投入する」という。

後半、木川氏は、1972年から1992年までの「送り手側サービス向上」、1992年から2007年までの「受け手側サービスの向上」に続き、新たに「サービスの組合せ」に取り組んでいると述べる。それは、サービスを新規投入の歴史からの離陸であり、新たな枠組み(土俵)への進化である。読者は、21世紀中盤のクロネコヤマトが、もはや「宅急便」の企業ではなく、新たな公共インフラとなった世界を予感することだろう。

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日本の多くの企業で、経営者は「イノベーション」を求めている。イノベーションを生みだし、競争優位性を獲得し、他者を排斥し、一人勝ちしたい。それは、日本の戦後を支えると同時に、激しい競争にさらされてきた「ベビーブーマー」たちのメンタリティそのものといえる。しかし、すべての「ベビーブーマー」がそうではないことを1949年生まれの木川氏は教えてくれる。日本も捨てたものではないのだ。鰯の群れのような行動様式も、実は詳しくみればより複雑で柔軟性に飛んでいる。


「宅急便」を立ち上げた小倉氏は、「経営とは論理の積め重ねである」と語っていたという。言葉は危険だ。言葉だけが一人歩きする。実際、小倉氏が生みだした「需要創出サイクル」が、論理のみの積み重ねであるとは木川氏は言わない。「オンリーワンとは開発者が誇れるものをさすのではない。お客様の話を聞くことから始め、解決策がなくて困っているという声を受け止め、その上で、セグメントを絞ることで5割を取る。100億の市場の10%と20億の市場の50%は等しいのだ」、そう小倉氏は考えていたという。6万人のセールスドライバーが集めた細かなニーズを丁寧に見つめ分析することで、本当のオンリーワンを発見できる。それが、木川氏が語る小倉氏の論理なのだ。

小倉氏が生みだし、木川氏が語る「需要創出サイクル」に経営のマジックはない。「セグメントを越えて話す」、「お客様の話を聞くところから始める」。なんと「あ・た・り・ま・え」のことなのだろう。当たり前だからこそ、誰にでもできる。今日からできる。”日本はよくなる”と素直に信じられる。本書の本当の価値は、そこに希望があることなのだ。

本書を読んで、クロネコヤマトパナソニックを越えたと思う。かつて水道哲学を唱えた松下幸之助たちが創り出した世界観、もの作りの神々のたそがれに我々は立ち会っている。クロネコヤマトの技術とは、テクノロジーとしての技術ではない。「人と会う技術」、「人から話をきく技術」、「それを抽象化する技術」だ。そして、真に革新的な点は、「自分の枠を越えることへの躊躇を乗り越える勇気」を持っていることなのだ。

「宅急便」が始まった1976年は、オイルショックのさなかである。そこから始まった物流分野でのイノベーションは、2011年の木川氏の社長就任を機に、さらに大きなビジョンをもって展開しようとしている。本書は、経営の解説という形を借りた「ひとつの物語の書」だ。その物語の結末はまだ明かではない。その物語の読者である我々は、同時にその物語の舞台の中にいる。こんな世界に立ち会える機会はそう滅多にあるものではない。