okadamktの日記

That's what we call a tactical retreat.

明るい勇気を与えてくれる: 山田スイッチ 『しあわせスイッチ』



「明るい青春小説」というジャンルがあるならば、この本はその筆頭だろう。描かれている「青春」は、どこか微笑ましく、そして確実に空回りしている。でも、その空回りが、なんだか五月の空の鯉のぼり、竿の先の風車のように元気にからからと回り、わけのわからない勇気を与えてくれる。

エピソードの一つ一つは本当に楽しい。そもそも人は「世界・ふしぎ発見」のミステリーハンターになるという野望を持たない。そのために青森から上京したりもしない。そこに読者は「青春」を再発見する。

さまざまなエピソードを受け止める著者の視点はユニークで、言葉づかいも楽しい。

たとえば「人生はどんな形か?」と自省するとき人は何を思う? 普通は「鮪(マグロ)」とは思わない。けれども、もしかすると、人生の形を「鮪(マグロ)」だと感じる感性こそ、「これまで自分は何をしてきたのか」、「これから自分は何をするのか」という漠然とした気持ちを的確に象徴しているかもしれない。

この本はそんな著者の、明るさとほろ苦さと空回りと内省によって人々に勇気を与える本だと思う。

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タイトルの「しあわせスイッチ」という言葉が面白い。しあわせの形、しあわせの音、しあわせの色、しあわせのスイッチ。それは一体、どんなスイッチなのだろう。

偶然というものが続けざまに起こる時がある。そういう時はもう、運命が動き出して「位相」がずれる合図なのだ。(「第二章 キャベ千ひとつで板前に」より。p.14)

小さな見えない時計の歯車が動いて「カチっ」という音が聞こえると思える瞬間がある。「ああ、あのときはそうは思わなかったけれど、思い返してみると、あれが自分のしあわせのスイッチが入った時だったかも」、そんな風に思えたりする。あるいは、そんな風に思い返している今が、実はスイッチが入っている状態なのかもしれない。

それは、ある意味、赤塚不二夫的だ。

人ってのは現在の状態に至るまでに、あらゆる要因によって、あらゆる経験によって、あらゆる満たされなさによって、「現在の自分」を構成する。この、なんともいえぬ「うまくいかなさ」の切なさと、その切なさを埋める、何がなんでも「負けるもんか」というパワーによって、人は新しい自分を手にいれる。「第三章 板前オールスターズ」より。p.42)

「それでいいのだ」。バカボンのパパの口癖が蘇る。

バカボンも、バカボンのパパもママもハジメくんも、レレレのおじさんも目玉のおまわりさんも、「ニャロメっ!」といいながら頑張っているニャロメも、ケムンパスもブタ松親分も心のボスも、「それでいいのだ」。本書のエピソードは、どれもそう思わせてくれる。だから明るくて、読んでいて勇気がなぜか湧いてくる。

しかも、押し付けがましくなく、視点がやさしい。

それにしても、プチ整形登場以来、「プチ」をつけると、何もかも大したことない風になっていいね。
(「第三章 板前オールスターズ」より。p.47)
世界に対する絶望とは、ありのままの自分を受け入れることの拒否であると思う。たとえば弱くても無意味でも、ありのままの自分を受け入れられれば、世界は少し、やさしくなる。(「第三章 板前オールスターズ」より。p.48)

本書の主人公は一生懸命だ。たとえ、その一生懸命さが、若干、世間の常識とは違っていたとしてもまったく問題ない。それにそんなことはとっくにわかっているのだ。

生き方というものには二種類ある。指針を決めて目標に進むタイプと、進んでいるうちに指針が決まるタイプ。その二つだ。後者は俗に、場当たり主義と呼ばれる。(「第二章 キャベ千ひとつで板前に」より。p.20)
自分のやりたいことに正直になろうとしたら、物事はきちんと考えてはいけない。そんなんキチンと考えたなら、社員になんのが一番いいに決まってんじゃん! 年金だって、払うに越したことはない。しかし、サイコロの目は六までしか出ないと思ってしまったら、七は出せないのである。(「第十六章 剛速球」より。p.147)

そう思うか、そうするか、それは人それぞれだ。そうしたいと思っても出来なかったり、そうしていてもよかったかなと思う人もいるだろう。

「それでいいのだ」。本書が与えてくれる希望はそんな明るさなのだ。