okadamktの日記

That's what we call a tactical retreat.

わからないことを楽しむ:圏論の歩き方委員会 『圏論の歩き方』

旅行をしたいと思い付いたとき「地球の歩き方」を手に取る人は多いだろう。圏論の世界に出かけてみたいと思ったとき、だから「圏論の歩き方」を手に取ることは自然なことだ。本書はそのガイドブックなのだから。

この本には独特の楽しみ方がひとつある。さっぱりわからないことを楽しんでみるという楽しみ方だ。実際、私には本書に書かれている内容の98%がわからなかった。もちろん、わからなければよいというものではない。この楽しみ方、それなりに練習と修行が必要となる。

まず、人生において「それほどにわからない」ということはなかなかない。その「さっぱりわからないぞ」という名状しがたい人生の状態を、「これはなんともいえない新鮮な感覚だ」と味わってしまう気概と余裕は必要となる。

わからないこと自体は問題ではない。人類の99.9%はおそらくこのガイドブックの内容はさっぱりわからないだろう。だから、わからないことは罪ではない。ましてや読者のせいでもない。もちろん著者のせいでもない。

「誰も悪くはなくても、悲しいことはいつもある」と中島みゆきも唄っている。「願い事は叶わなかったり叶いすぎたり」もする。そしてそういうこととはまったく独立に、本書において「わからないこと」は、悲しみではなく味わうべき楽しみなのだ。確かに存在するであろうかすかな希望をそこに見いだせるかどうかだ。

例を示そう。

読むという行為は不思議な行為だ。たとえば「○は△だから□だ」という文があるとしよう。この文には意味があるようでない。○も△も□も空白だからだ。それなのに、なぜかわからない気持ちはあまり生まれない。人は○や△や□を自分なりの言葉で補間するからだ。

では、こうであればどうだろう。本書の一部を少しアレンジしてみた文だ。

同型なホモロジーを持つ複体は同じ性質を持ちますから、もし擬同型が複体の同型射である圏ができれば、複体のホモロジーを展開する舞台として適したものになります。擬同型の逆射を加えた圏が導来圏です。導来圏は三角圏でもあります

私はただただ目眩く思いを感じるのみだ。○や△や□という空だったものが、生き生きと訳のわからない力を持って迫ってくる。

この感覚は非常に上質で前衛的なSFを読んだときの気持ちに似ている。何が起こっているのか、そこはどこなのか、なぜそうなのか、まったく脈絡が掴めない。しかしなぜか読むことを止めることができない。そんな感覚だ。言葉は見えるが意味としてのつながりが失われる。

小学生でも知っている”三角”という言葉に、限られた地域や範囲を示す"圏"が組み合わされた世界。そこでは"複体"というものの"擬同型"が存在するらしい。しかし、そもそも複体とは何者なのか。擬同型とは何が擬で何が同なのか。妄想はふくらむ。

あえて超訳すればこうなるのかもしれない。法的には推定無罪を申告する。

 似た性質を持つのだから、こうして生まれたその場所は、舞台としてもっとも適した場所になるはずだ。

なぜか希望が湧いてくる。まるで新天地に降り立ったかのように希望に溢れた舞台がそこにある(ような気がしてくる)。

 本書にはこんな楽しみかたもある。

第2中世への予感:熊代亨『融解するオタク・サブカル・ヤンキー ファスト風土適応論』

本書のタイトルは「融解するオタク・サブカル・ヤンキー」だが、本書の主題はそこではない。副題の「ファスト風土適応論」こそが本書のメインディッシュだ。

もちろん、かつて「オタク」「サブカル」「ヤンキー」と呼称された文化とその後の変遷、そしてそれを支えた若者の傾向が、現代(2014年)の視座からみた位置づけや分析とともに語られている。章立てでいうと「第二章」「第三章」がそれにあたる。ページ数でいえば47ページから118ページ、全体で200ページ弱の本書の4割弱に相当する。

第2章 オタクもサブカルもヤンキーもいなくなった
第3章 オタク/サブカルの年の取り方 

一方、メインディッシュといえる「ファスト風土適応論」には、「はじめに」「第一章」「第四章」「第五章」と本書の約6割があてられている。文脈の違いは目次からもうかがえる。

はじめに 「ヤンキー的な。オタク的な。サブカル的な。」
       20世紀的な幸福モデルが失効した世界で
第1章 国道沿いの小さな幸せ
第4章 国道沿いに咲くリア充の花 
第5章 追いかけてきた現実(リアル)

「はじめに」の項目でも明かなように、「オタク」「サブカル」「ヤンキー」は括弧書きの記号であり、本書が述べている主題は異なる文化的な水脈であり、本書の主題である。そしてそれは、2000年代までに日本全国に拡大した、ファスト風土文化で一律的な舗装をされたロードサイド文化圏で生きる若者の様相である。

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著者が注目するのは、奥行きやディテールを趣味生活に求めないファスト風土文化と、時間的にも金銭的にも余裕がなく、なけなしのリソースをズッ友な人間関係の再生産に費やす若者文化との関係である。その二つの様相は、手許にあるモノやコンテンツをきちんと楽しみ、それなりに満足できることを大切にし、特別な私を求めない姿勢、ファスト風土文化をごく自然に受容する文化的価値感を醸成する。

その価値感は、「オタク」「サブカル」「ヤンキー」という記号的の中にアイデンティティを見いだそうとした旧来の若者とは異なる。「特別な私」を購買する必要を感じず、ファスト風土文化の中で充足して生きる若者観は、著者オリジナルの現代社会論だ。細かな差違を必要とせず、与えられた記号の享受で十分に新鮮な満足を得られる人々の存在は発見的だ。農業的価値感とも宗教的価値感とも異なる源泉の第二中世的な価値感を予感させる。二十世紀価値感とはまったく異なる様相といえる。

著者の主張は従来の若者文化論とはかなり立ち位置が異なる。個性・主張・ユニークさといった価値のデフレ現象を記述している。「同じものが好きでいいじゃない。」、「特別である必要なんてないよ。」、「それってなんのマウンティングですか?」、「”ゆとり世代”? ”さとり世代”? オレら”おわり”世代ですから。それでいけない理由もないし。」、そんな呟きが向こう側に見え隠れする世界の記述だ。

その上で著者は「ファスト風土文化は続くのか?」と問う。ファスト風土文化は、コンビニやファストフード郊外大型モールという文化と嗜好の工業的流通を前提とする。過疎化や採算性が伸びきってしまったこれからの時代、その豊かさも担保されない。

進出から撤退、発展から衰退へのフェーズ・シフトはすでに始まっている。採算という経済合理主義は、ファスト風土文化の基盤を揺るがせる。ファスト風土文化を支えてきた店舗は消え、人々は物質的にも文化的にも空白に直面する。それにどう対処すればよいのか。著者が提示する答えのない問いである。

問いは答えを求め、空白は埋めるものを求める。何がそれを埋めるのか、まだはっきりとはみえない。融解してしまった「オタク」「サブカル」「ヤンキー」ではないことは確かだ。だからこそ、著者は本書のあとがきで「"精神の受け身をとるための方法論"のニーズは、これからもっと高まっていく」と指摘しているのだろう。

問いをより深めるために:ウォーレン・バーガー『Q思考 ― シンプルな問いで本質をつかむ思考法』

「アイディアはつねに「疑問」から生まれる」。では、その問う力について真剣に考えるとはどういうことなのか。本書は著者自身のそんな問いから生まれたものといってもよいだろう。問うという行為の必要性、価値、よい問いの例、問いを妨げるもの、よい問いに近づくための工夫。本書は、問いにまつわる著者の思考の軌跡と考えることができる。

いわゆるHow-to本とは性格が少し異なる。よい問いをつくる手順がレシピのように書かれた本ではない。本書の原題は”A More Beautiful Question”。著者は「美しい問い」をこう定義する。

私たちが物事を受け止める、あるいは考える方法変えるきっかけとなる野心的だが実践的な質問のこと。(p.13)

本書には、「美しい問い」を発見するために著者が収集したさまざまな知恵がそこかしこに書かれている。それらを実際に試し問い続けることこそ、「美しい問い」へ読者が到達するための最善の道だ。本書は、読者が自らの「美しい問い」を発見するための最初の一歩を踏み出すためのガイドブックといえる。

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本書には、著者のジャーナリストとしての洞察に満ちたフィルターを通して編纂された知恵がちりばめられてられている。その知恵は辞書のようには配置されない。森の中で新しい発見をしながら散策するように描かれている。

著者が勧める知恵は即物的というよりは内省的だ。たとえば著者は「なぜ?」という問いのために必要なこととして下記をあげる。

  • 一歩後ろに下がる
  • 他の人が何を見失っているのかに気をつける
  • 前提条件(自分たち自身を含む)を疑ってかかる。
  • 前後関係をよく見極めながら、つまり「文脈的探求」を通じて、足下の条件や問題の理解を深める。
  • いま抱いている疑問を疑う。
  • 特定の疑問や質問については自分が主導権を握る。(p.134)

そして、そのための工夫として、下記のような実践を提案する。

  • 自分がよく知っているものを見ているときに、あえてそれを新鮮に感じるような「ヴジャデ」(既視感:デジャブの逆)のトレーニングをする(p.149)
  • トヨタの方法「なぜを5回繰り返す」では、問いを「開いたり閉じたり」して質問のレベルを上げる(p.171)
  • 「もし~だったら?」という問いは、極端な「仮定」で現実をひっくり返す(p.202)
  • 「どうすれば?」という問いは、実践によって失敗をしダメージを受けながら「少しずつ」進む(p.221)
  • 「ブレイン・ストーミング」の代わりに疑問や質問を生み出す「クセスチョン・ストーミング(Qストーミング)」を行う(p.270)
  • Howに躊躇しがちな人々に対して、「どうすればできそうか?(How might we?)」と問う(p.274) 

 著者が求めているのは哲学的で答えのない質問ではない。著者が本書で対象としたいのは、行動に結びつく疑問、目に見える形で確認できる結果や変化に結びつく質問だ。著者は理論物理学者のエドワード・ウィットテンの言葉を引用する。

私はいつも、回答しがいがあるほどに難しく(そして面白く)、実際に答えられる程度にはやさしい質問を探している(p.14)

示される工夫が内省的なトーンを持っているのは、著者が問いという行為を世界を構築する手段だと考えているからだろう。だからこそ、著者は、ポジティブな問いを推奨し、下記のような言葉を引用をする。

組織は自らが発する問いに引き寄せられる (p.44)
私たちはみな、自分たちの問いかけがつくりだす世界に生きているのだ(p.45) 

 美しい問いが世界を創造する。それが著者からのメッセージなのだ。

仮説の振れ幅を再考させてくれる:エベネザー・ハワード『明日の田園都市』(新訳)

エベネザー・ハワードによって1898年に提唱され、1992年に「明日の田園都市」("GARDEN CITIES of To-Morrow")と改題されて出版された本書は「近代都市計画論」の古典として位置づけられている。本書は、"田園都市"("GARDEN CITIES")という牧歌的ともいえる語感の表題を持つが、内容は産業革命後に急速に進んだ都市への人口集中に対する解決案の設計について記述したものだ。

実際、第1章の『「町・いなか」磁石』では、冒頭から、「読者のみなさんには、約24 km^2を擁する広大な敷地を考えていただきたい。そこは現在は完全な農地で、公開市場では1エーカーあたり40ポンド、つまり総額24万ポンドで購入したものだ。購入資金は、担保付き債券の発行で調達されていて、その平均金利は4%を越えないものとなる」ときわめて具体的な提案を行っている。

第2章以降も同様で、

 「第 2章 田園都市の歳入と、その獲得方法 - 農業用地」
 「第 3章 田園都市の歳入 - 市街地」
 「第 4章 田園都市の歳入 - 歳出の概観」
 「第 5章 田園都市の歳出詳細」 

 と歳入・歳出に関する概要が示しているし、第6章以降は、その運用形態と各種疑問に対する解答という体裁になっている。

 「第 6章 行政計画」
 「第 7章 準公共組織 - 地方ごとの選択肢としての禁酒法改革」、
 「第 8章 自治体支援作業」
 「第 9章 問題点をいくつか検討」
 「第10章 各種提案のユニークな組合せ」
 「第11章 道の先にあるもの」
 「第12章 社会都市」
 「第13章 ロンドン将来」

 ハワードの提案が、ハード面よりもソフト面で重視していることも重要だ。たとえば、「第7章 準公共組織」では「公共事業と民間事業との間にはっきりした一線を引くことはできない」としながら、都市運用の設計を前提として、商店や店舗を運営する個人や組織に対する提案の形態を取っている。

なお、F. J. オズボーンによる序文(1945年/1965年の再刊時)と新訳に際しての訳者あとがきは、本書の位置づけを理解する上でのよい解説となっている。

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本書には都市のグランドデザインを再考するトリガーとしての価値がある。100年以上前に出版された本だが、拡大型の非平衡状態から少しずつ準平衡状態へと移行しつつある現代の日本において、都市の再設計に関する議論を改めてすべき時期にあるからだ。本書で述べられた提案がこれからの日本の都市のグランドデザインとして有用であるかどうかは問題ではない。重要なことは、時代の変曲点にあって、より具体的でかつ大規模なデザインに関する議論を、ハワードと同様、私たちがもっと活性化すべき時期にあることだ。

ハワード自身は、「第10章 社会都市」でこう述べている。

 現存するものは、存在できるかもしれないものをしばらくは妨害できるだろう。でも、進歩の波を押しとどめることはできない。こうした混雑した都市はその役目を果たした。おもに利己主義と強欲に基づいている社会が建設できるのはせいぜいがこんなものだったのだけれど、でも人間の性質の社会的な面が、もっと大規模に実現を求めている社会には、まるで適応していない。この社会では、自己愛そのものですら、同胞たちの福祉をもっと重視せよという主張をもたらすのだ。
 今日の大都市は、地球が宇宙の中心だと教える天文学の著作がいまの学校では使えないのと同じくらい、同朋精神の発現には適用させられないのだ。それぞれの世代は、自分のニーズに合わせて建設を行うべきだ。そして先祖が住んでいたからというだけで人があるところに住み続けるというのは、ずっと大きな信念と拡大した理解のおかげで過去のものとなった古い信念を抱き続けろというのと同じで、別に物事の本性でもなんでもないのだ。
 だから読者のみなさんは、自分が無理もない誇りを抱いている大都市が、いまのよう形ではまちがいなく永続的なものだなどと、無条件に考えないでいただきたいと、わたしは心からお願いするものだ。(p.239)

 ハワードが提案した設計は「居住者の規模は3万人程度、土地はすべて公有かそのコミュニティのために信託化」という条件に基づくものだ。それは直ちに現代の日本に適用できるものではもちろんない。しかし、都市をアプリオリに捉えるべきではないというハワードの問題意識は、ハワードから100年を経た私たちにも訴えかけてくる。

彼の時代の前提と私たちの時代では、社会的環境も社会的な課題も異なっている。しかし、彼の大胆ともいえる視座は、時代の大きな変曲点にいる私たちにとって、都市モデルの仮説の振れ幅を再考する上での試金石となりうるだろう。

 

言葉と鳥と島への愛に満ちた啓蒙書:川上和人 『そもそも島に進化あり』

本書は、海に囲まれた「島」という存在が生物の進化にどのような意味をもつのかを考察しており、一般的には科学啓蒙書のジャンルに属している。

著者は、「ここに海終わり、島始まる」と、読者を島嶼という環境のもつ生物学的な魅力へと誘う。島嶼という字が読めなくても心配ない。島には青い空と白い雲が広がっている。本書は「島」と「生物の進化」との関係を通奏低音としながら、著者とともに人生の機微を呵呵と大笑するための本でもある。著者自身の島と鳥への愛に思いをはせ、島と生物学の魅力を味わいつつ、読者は愉快な休日を過ごすことができるだろう。もちろん、私も島嶼を読めなかった。

目次にも注目してほしい。

はじめに ここに海終わり、島はじまる
序 そもそも島は
第1章 島が世界に現れる
第2章 島に生物が参上する
第3章 島で生物が進化を始める
第4章 島から生物が絶滅する
第5章 島が大団円を迎える

読み進めるにつれ、読者は著者が描写する「島と生物の進化との関係の特殊性と一般性」に触れ、その意味に囚われてしまうことだろう。

もし読者が「島」にも「鳥」にも「生物の進化」にも興味がないとしても心配ない。「ヒットガール」「ダメ!絶対!」「モンゴリアンデスワーム」「ジャイアンなき後のスネ夫による暗黒支配」などのキーワードに反応する感性をお持ちなら、十分本書を著者とともに楽しむことが可能だ。

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それにしても、「第5章 島が大団円を迎える」とは、久しぶりに目次に「大団円」という文字を見た。目次に躊躇なく「大団円」という言葉を記す感性は、遠藤周作か北杜夫か源氏鶏太ぐらいのものである。人生に対する達観と暖かな視座と洒脱を楽しむ気持ちが伝わってくる。科学的な視点をある種の詭弁・強弁の類いとするバランス感覚も楽しい。

バランス感覚は各章を構成する目次にも現れている。たとえば、海に囲まれた存在である島への生物の様々な到達方法を記した「第2章 島に生物が参上する」は、以下の7つの項から構成されている。

1. 島に招くには、まず隗より始めよ
2. 食べれば海も越えられる
3. 太平洋ヒッチハイク
4. ビッグ・ウェンズデー
5. 風が吹けば、誰かが儲かる
6. 早い者勝ちの島
7. 翼よ、あれが島の灯だ 

 島の生物の不安定さについて記した「第4章 島から生物絶滅する」は、以下の5つの項から構成されている。

1. 楽園の落日
2. 闘え! ベジタリアン
3. プレデター vs エイリアン
4. 拡散する悲劇
5. カガヤクミライ 

この構成から、本書が生物に関する啓蒙書であることを逆演算することができるならば、おそらくあなたは天才なのだろう。

生物の進化の妙を記した「第3章 島で生物が進化を始める」の「6. 植物がかかる島の病」「7. フライ、オア、ノットフライ」は、それぞれ以下の5つの項と8つの項に分かれている。

・沈めタイヤキ君
・多機能も、いずれは宝がもち腐れ
・見上げればいつもと違う草
・耐えられる存在の地味さ
・ヘルマフロディトスからの脱却 

・さらば空よ
・用がなければ飛びません
・小さくて低いのは、お嫌いですか
・無理はしません
・悪魔との契約
・引きこもりの進化
・鳥類肉体改造化計画
・念のため、鳥以外もみておくか 

本を読む愉しみはさまざまだ。そして「言葉を愉しむ」ことは、その中でもなかなか得がたい愉しみの一つといえる。本書はその愉しみを、思う存分味あわせてくれる。言葉がことばを引き出す言葉のダンス。北杜夫や遠藤周作のエッセイには確かにそれがあった。立川談志の落語の魅力も一部そこにある。言葉は飛びはね、跳ね返り、科学的概念とともに楽しく踊っている。

目次だけでもこの愉しさなのだ。そして本書は啓蒙書だ。挿し絵、脚注、概念の抽象化、具体化、すべてを総動員されている。文末の「参考になるかもしれない本~島への興味に心を動かされた読者のために~」では、さりげなく森村桂「天国にいちばん近い島」があげられている。すべては「島」と「鳥」への愛ゆえに。

「パワー」(Powers)

ル=グウィン、西のはての年代記 Ⅲ「パワー」(Powers)。

都市国家群のひとつエトラの少年奴隷ガヴィアには未来に起こることがらを「ヴィジョン」として見る力がある。しかしその彼の力が4つの章に分かれて語られるこの物語の主軸になることはない。それがこの物語と、西のはての年代記I「ギフト」(Gifts)や年代記Ⅱ「ヴォイス」(Voices)とで趣を異にする部分である。

物語の主役は社会の力そのものだ。それは希望を与え希望を奪う。登場人物たちの価値感は夢のように儚く脆い。その力は他者から奪うことを是とさせ、人々の生き方を歪める。あるいは無機質な生き方を強いる。

主人公の一人バーナは少年ガヴィアにいう。

どんなふうだったか、わたしにはわかる。きみは大きな館――都市の富裕な館の奴隷だった。そこの主人たちは親切にも、きみが教育を受けられるように取り計らってくれた。ああ、わたし自身、よく知っているんだ。それがどういうことか。きみは、自分は幸せだと感じるべきだと思っていた。きみには、学び、読み、教える力が――賢い人、学識のある人になる力があったから。それは、主人たちが与えてくれたものだ。主人たちがそれをもつことをきみに許したのだ。そうだとも! だが、何かをする力を与えられても、きみは、誰かの、あるいは何かの上に及ぼす力はもっていなかった。そういう力は彼らの――主人たちの、きみの所有者たちのものだったから。そして、きみが自覚していたかどうかは別として、きみは自分の体の骨の一本一本に、きみの心のすみずみに、きみをつかみ、操り、おさえつける主人の手を感じていたはずだ。そういう条件では、どんな力をきみがもっていたとしても、それは価値がない。なぜならば、それは、きみを通して働く彼らの力にほかならないからだ。彼らは君を利用していたんだ・・・。きみがそれを自分の力だというふりをすることを、彼らは許していた。きみは、ほんのひとかけらの自由を主人たちから盗み、それが自分のものであり、きみに幸せを感じさせるのに十分であるかのように装った。そうだろう?(p.260-261)

バーナの言葉は正しい。ガヴィアは苦痛をもってそう思う。なぜならその言葉はガヴィアのかつての美しい世界を破壊する事実だからだ。

バーナの世界もまた一瞬のうちに変容する。それをガヴィアは無感動に受け入れる。「パワー」(Powers)という物語に通奏低音のように流れるのは無力感だ。「敵」は去ったのか? 「自由」は得られたのか? 

それは読者に委ねられる。

静かな雪の夜のように

ル=グウィン「ヴォイス」の一節が頭を離れない。長らくオルド人の武力的な圧政下で虐げられてきた都市アンサルが自由への一歩を踏み出しつつある瞬間の一節だ。

 応接室にもどると、議会や選挙や法による統治と言った話題よりも、襲撃だのオルド人虐殺だのというほうに議論が傾いていた。もっとも、そうあけっぴろげに話をしていたわけではなく、兵力の終結、市内の諸勢力の団結、武器の備蓄、最後通牒といった言葉が使われていた。
 その後、今日まで、わたしはあのとき聞いたことと彼らの用いた言葉づかいについて何度も考えた。男は女と比べると、人間を生身の肉体をもつ命としてではなく、数として――頭の中の戦場で思いのままに動かす、頭の中のおもちゃとして――とらえがちなのではないだろうか。この非肉体化によって、男たちは快楽を感じ、興奮し、行動したいから行動するということをためらわなくなる。人間を数として、ゲームの駒のように操縦することをなんとも思わなくなる。その場合、愛国心とか名誉とか自由とかいうのは、神に対して、そのゲームの中で苦しみ、殺し、死ぬ人々に対して言い訳をするために、その快感に与える美名に過ぎない。こうして、そういう言葉――愛、名誉、自由――は、本当の意味を失い、価値が下落する。すると人々はそれらの言葉を無意味だと見下すようになり、詩人たちは、それらの言葉に真実の意味を取り返してやるため、奮闘しなくてはならない。(p.284)

ル=グウィンらしい痛烈な洞察に満ちた文章だと思う。

そうなのだ。ほんの少し油断するだけで、私たちは、さまざまなことを概念化と称し、駒のように操作しはじめる。そのこと自体の意味を自らに問うことをおろそかにしてしまう。スピードや効率や効果といった操作のための指標にだけ注意を向けてしまう。賢いということの意味を履き違えはじめてしまう。喜びをもって。

「読むことは、かつてわたしたちみんなが共有していた能力だった」道の長が言った。長の声はもはや穏やかではなかった。「もしかすると今こそ、わたしたちみんがが、それを学びなおすときなのかもしれない。いずれにせよ、与えられた答えが理解できるまでは、新しい問いを発してもむだだ」
「理解できない答えになんの益がありましょう?」
「噴き水の水は、おまえが満足するほど澄んではいないと言うのか?」
わたしは道の長がこれほど怒っているのを見たことがなかった。白刃のような冷たい怒りだった。(p.286)

日々の生活の中で、わたしたちが何を得、何を失ってしまったのか。ノスタルジーに浸るのではなく、反発をエネルギーにするのでもなく、テレビを消し、音を消し、振り返るときなのだと思う。